雨は嫌いですか、私は好きです

 玄関の扉を閉めた瞬間、外の空気がふっと途切れた。代わりに、家の中の静かな空気が体を包み込む。
 いつもと同じはずの、少しだけ暖かい匂い。けれど、今日はそれすら何処か遠く感じた。
 覚束ない足取りのまま小さな玄関を進み、段差に力なく座り込む。
 ローファーを脱ぐという当たり前の単純な行為ですら、今はどうにもままならない。

「あら、雨音? 帰っていたのね。おかえり」

 リビングの方から聞こえてきた母のその声も、やけにぼんやりと聞こえた。
 返事をしようとして、少しだけ間が空く。
 何かを言おうとしたはずなのに、言葉が出てこない。

「雨音?」

 結局、そのまま何も返さなかった。否、返せなかった。
 脱ぎかけで止まっていた靴を脱ぎ、いつもならきちんと揃えるはずのそれを手に取る。
 と、そこで動きが止まった。
 片方の靴を持ったまま、何もせずに小さく蹲る。

(……思い、出したくないのに)

 頭の中に浮かぶのは、さっきの一人でいた公園での光景。
 学校で振り返らなかった背中。
 視線を逸らされた瞬間。
 呼んでも止まってくれなかったこと。
 それらが、考えようとしなくても勝手に思い出される。
 靴を持ったまま、しばらく動けなかった。やがて、小さく息を吐いて揃える。
 形だけ整えて、それ以上は何も考えないようにした。

「ちょっと、雨音!?」

 立ち上がって鞄を持ち直すと、そのまま廊下を歩き階段の一段目に足を掛けた。
 リビングの方から母の怒鳴り声が聞こえたけれど、雨音は振り向くこともせずに階段を登る。
 遠くなったリビングの中からは、テレビの音と食器の触れ合う音が聞こえた。
 二階へと辿り着いた時、少しだけ視線を向ける。けれど、そのまま廊下を歩き出した。
 下の階にいる母に声を掛けることも、足を止めることもない。
 自分の足音だけが、二階の廊下に静かに響く。
 部屋の前で立ち止まって、扉を開けた。いつもと同じ、自分の部屋。見慣れているはずの景色なのに、何処か現実感が薄い。
 鞄を床に置いて、制服のままベッドに倒れ込む。柔らかいはずの感触も、あまり意識に入ってこない。
 そのまま仰向けになり、天井を見上げた。
 白い天井。何もない、ただの平面。それらをぼんやりと視線を向けながら、何も考えないようにしようとしたのに。
 できなかった。

(……なんで)

 また、同じ言葉が浮かぶ。
 見慣れたクラスの人気者としての一晴の顔。ホームルームの時間で皆に褒められ笑っていた表情。それが、放課後に見た無表情と重なる。
 目が合ったのに、すぐ逸らされたこと。
 呼んでも、止まってくれなかったこと。
 逃げるみたいに、いなくなった背中。
 一つひとつ思い出すたびに、別の場面が連なっていく。