雨は嫌いですか、私は好きです

 今度は少しだけ大きく、さっきよりもはっきりと届くように声を出した。
 喉の奥に少しだけ力を込めて、確かに聞こえるはずの声量で。
 けれど、一晴は振り返らなかった。
 まるで最初から聞こえていないみたいに、何の反応も示さないまま、角を曲がる。
 迷いなく、躊躇うこともなく。
 ほんの一瞬も立ち止まることなく、その背中は視界から消えていった。
 歩みが自然と速くなる。考えるよりも先に、距離を縮めようとしていた。
 雨音もすぐにその後を追って曲がる。息が上がっても、躓いても、その姿を見失わないように
 靴音が、さっきよりもはっきりと廊下に響いた。

「成瀬君っ!」

 けれど、そこにはもう誰もいなかった。
 左右に伸びる廊下。そのどちらにも、それらしい姿は見えない。
 ほんの数秒前まで、確かに人が通ったはずの場所なのに。視界の何処にも、その気配が残っていない。
 さっきまで聞こえていたはずの足音も、もう何処にもなかった。
 まるで最初から何もなかったかのように、静けさだけが広がっている。
 窓から差し込む夕方の光だけが、静かに床に伸びていた。長く伸びた影が、動くこともなくそこにある。
 時間だけが、ゆっくりと流れているみたいだった。

「……あれ」

 小さく呟くと、自分の声が少し遅れて耳に届いた。
 さっきまで、確かにいたはずなのに。
 ほんの数秒前まで、あの角を曲がったはずなのに。
 こんなにすぐに見失う距離じゃない。走れば追いつけるはずの距離だった。
 それなのに、まるで最初からいなかったみたいに、気配ごと消えてしまったような感覚。
 雨音はしばらくその場に立ち尽くした。
 足を動かすこともできずに、ただ廊下の奥を見つめたまま。
 左右に視線を動かしても、何も見つからない。誰かが現れる気配もない。
 心臓だけが、少し速く動いている。さっき走ったせいだけではない。
 胸の奥が、落ち着かないままざわついている。
 上手く言葉にできない、不安のようなものがじわりと広がっていた。

(……なんで)

 追いかけた理由も、もう自分ではよく分からなかった。
 どうして呼び止めようと思ったのか。
 どうして、あんな風に焦ったのか。
 さっきまで普通に掃除をしていただけなのに。ほんの少し前まで、いつも通りの寂しい放課後だったはずなのに。
 感じる違和感を上手く説明できない。
 頭の中で言葉にしようとしても、形にならないまま消えていく。
 ただ、あのまま彼を行かせてはいけない気がした。それだけだった。
 理由なんてなくて、ただそう思っただけなのに。
 それなのに、結局、何もできなかった。
 声も届かなくて、追いつくこともできなくて、目の前でただ見失っただけ。ただ、いなくなった後の廊下に立っているだけ。
 何も変えられなかったまま。

「は……っ……はあ………」

 ゆっくりと、胸の奥に溜まっていた空気を少しずつ外に出すように息を吐く。
 それでも、残っている感覚は消えなかった。僅かに残る違和感と、引っ掛かるような感情。
 しばらく立ち止まっていた雨音は。それから踵を返した。
 足音が、さっきよりも静か廊下中に響く。
 もう一度だけ後ろを振り返ることもなく、その場を離れる。振り返ったところで、もう誰もいないと分かっていたから。
 ただ前を向いたまま、ゆっくりと歩き出した。