雨は嫌いですか、私は好きです

 その時、廊下の向こう側を見覚えのある背中が通り過ぎた気がした。
 何気なく上げた視線の先。
 人の気配がほとんど消えたはずの廊下に、たった一人だけ動いている影があった。

(……あ)

 一晴だった。
 少しだけ早足で歩いている。いつものように誰かと話しているわけでもなく、一人で。
 周りを気にする様子もなく、ただ前だけを見て進んでいる。
 肩に掛けた鞄が、歩く度に小さく揺れていた
 その背中は、昼休みや授業中に見たものと同じはずなのに。何処か少しだけ遠く感じて居た堪れない。

(補習、終わったのかな……?)

 その姿を見た瞬間、身体が言葉よりも先に動く。考えるよりも先に、一歩踏み出していた。
 どうしてかは分からない。呼び止めなきゃいけない、そんな気がしただけだった。

「……成瀬君」

 未だに慣れないけれど、彼の力になりたいと今でも思っている。だから、小さな声であろうとはっきりと呼ぶ。
 自分でも驚くくらい自然に、その名前が口から出た。
 少し前までは、こんなふうに呼ぶことすら躊躇っていたのに。

「ぁ………っ」

 けれど、声は思っていたよりも一晴には届かなかった。
 廊下の空気に吸い込まれるように、静かに空気に溶けて消えていく。
 壁に反響することもなく、ただ薄く広がって、それで終わる
 一晴の背中は、止まらないまま、角の向こうへと消えていこうとしていた。

「成瀬君?」

 本当なら、彼の名前を呼ぶ声に疑問の色など混ぜたくはなかった。
 けれど、彼が望んだ呼び方をしたのに無視される意味が、雨音には分からなかったのである。
 雨音は無意識に歩幅を大きくし、少しだけ早足になった。
 靴音が、静かな廊下に小さく響く。
 階段を降り、昇降口へと入ろうかというその時。
 一晴が雨音に気付いた。ほんの一瞬だけ、振り返る。
 目が合った。
 確かに、合った。
 距離はあったはずなのに、その視線だけははっきりと分かるくらいに。
 けれど、次の瞬間には一晴はすぐに視線を逸らして、そのまま歩く速度を上げてしまう。
 まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように、意地でも視線を向けようとはしなかった。

(……え?)

 頭が一瞬だけ真っ白になって、追いかける足が止まりそうになる。
 今のは、見間違いじゃない。ちゃんと目が合ったのに。
 なのに、どうして。

「っ……!」

 雨音は慌てて追いかけた。また、考えるよりも先に身体が動いていた。

「待って……!」