雨は嫌いですか、私は好きです

 ほんの少しの距離なのに、それがやけに遠く感じる。
 手を伸ばせば届きそうな距離。けれど、その一歩がどうしても踏み出せない。
 そんな曖昧な感覚のまま、雨音はその場に立ち尽くしていた。

「小森ー」

 その時、突然呼ばれた。慌てて雨音は散漫していた意識を取り戻す。
 声が聞こえてきた方向に立っていたのは、何を考えているのか分からない真顔の担任だった。
 教卓に置いていた名簿を手にしながら、表情を変えずに雨音に言う。

「今日、掃除当番な」
「……え」

 思わず小さく声が出た。その一言が、さっきまで頭にあったことを全部押し流してしまう。
 一晴に声を掛けようかどうか迷っていたことも。
 さっき見ていた光景も。全部、急に遠くへ行ってしまったみたいに。

「ほら、さっき決めただろ」
「あ」

 担任に言われて、ようやく思い出した。
 ホームルームの最後に、そんな話があった気がする。当番表がどうとか、誰が残るとか。
 黒板の前で名前が呼ばれて、誰かが返事をしていたような気もする。
 けれど、その時はぼんやりしていて、ほとんど聞いていなかった。
 窓の外を見ていたわけでもない。
 誰かと話していたわけでもない。
 ただ、なんとなくその場にいて、時間が過ぎるのを待っていただけだった
 周りの声も遠くて、何を話しているのかもよく分からないまま。気が付いたら終わっていた、そんな感じだった。

「他の奴は先帰ったから、悪いが一人で頼む」

 軽い調子でそう言われる。まるで、特別なことでもなんでもなく当たり前のように。
 頼む、というよりは、もう決まっていることを伝えられているだけの響き。
 その言い方に、断る余地はなかった。と言うより、断るという発想すら浮かばない。
 誰かがやらなければいけないことなら、自分がやればいい。
 それだけのことだった。

「……はい。いいですよ」

 声は自然と落ち着いていて、特別な感情は混ざっていなかった。
 それだけ返すと、担任は満足したように「おう」とだけ言って、さっさと教室を出ていった。
 廊下に出ていく足音が、少しずつ遠ざかっていく。その背中を見送ってから、もう一度教室の中を見渡す。
 さっきまで賑やかだったはずなのに。
 笑い声や話し声で満ちていた空間が、ほんの数分で別の場所みたいに静かになっている。
 気付けば、ほとんど人がいなかった。数人いたはずのクラスメイトも、いつの間にかいなくなっている。
 一晴の周りにいたグループも、もう誰も残っていなかった。
 机と椅子だけが残されて、さっきまでの空気が嘘みたいに静まり返っている。
 教室の奥の方に置かれた椅子が少し斜めにずれていて、誰かが慌てて立ち上がった気配だけが残っていた。
 窓の外から差し込む光が、少しだけ傾いていた。昼間の白い光ではなく、何処か柔らかい、淡い色に変わり始めている。
 その光が机の上や床に影を落として、教室の中に長く伸びていた。