雨は嫌いですか、私は好きです

 放課後のチャイムが鳴ると同時に、教室の空気は一気にほどけた。
 それまで張り詰めていたような静けさが嘘みたいに、あちこちから音が立ち始める。
 椅子を引く音や、机に置かれた教科書を鞄にしまう音。
 「帰ろーぜ」と誰かが気の抜けた声で言い、それに応えるように幾つものグループが立ち上がる。
 窓際では、部活の予定を話している声。
 教室の後ろでは、笑いながらじゃれ合う男子達。
 そのざわめきが、さっきまでの授業の空気を一瞬で押し流していく。
 雨音もゆっくりと教科書を鞄にしまった。ノートを重ねて、筆箱を入れて、静かにファスナーを閉める。
 周りの騒がしさとは対照的に、その動きはいつも通り落ち着いていた。

「一晴! 今日も補習なんだって?」
「お前専用の模範解答配られてんのに、まだ補習かよー」
「模範解答あっても、分からねぇもんは分からねぇんだって」

 そんな巫山戯た会話が聞こえてきて、少しだけ視線を上げる。
 声が聞こえてきたのは、教卓の前にある一晴の席の方から。そこにはもう人だかりができていた。
 後ろの席の男子や、隣のクラスの友達らしい生徒まで集まって、何か話している。
 誰かが身振り手振りを交えて話し、それに周りが反応して笑う。その中心にいるのは、一晴だった。
 いつものように、自然と人の輪の中にいて。
 誰かの言葉に軽く返しながら、自分でも何か言って、また周りを笑わせている。
 笑い声が上がれば、一晴もその中心でいつも通り笑っていた。
 特別なことをしているわけではないのに、何故かそこにいるだけで空気の中心になっている。

「……っ」

 席を立った状態で、雨音はしばらく動けずにいた。鞄を持ったまま、その光景を見つめる。
 あの輪の中に入ることは、自分にはできない。
 否、するべきではない。あの輪は彼らだからこそ成り立っているのであり、雨音が立ち入ってはならない場所なのだ。
 けれど、少し前の雨音であれば、そもそも見ようともすら思わなかったはずの場所。
 それが今では、ほんの少しだけ近くに感じる。
 声を掛けようかと、ほんの一瞬思った。いつもなら、一晴の方から話し掛けてくれることが多かった。
 だから、自分から声を掛ける機会はあまりなかったけれど。

(話し掛けるって、何を話すの?)

 何の話をしているの?
 これから何処に行くの?
 そんなことを聞いてどうする。そんなことをどうして聞く必要がある。
 考えれば考えるほど、何を言えばいいのか分からなくなっていった。
 それでも、一歩踏み出せば何かが変わるような気がして。
 けれど、帰るためにもその場から足は動かなかった。