雨は嫌いですか、私は好きです

 その時、ふと視線を感じた気がした。
 雨音はペンを動かしていた手を一瞬止めて、顔を上げる。
 教室の前の方、教卓の前。一晴が後ろを振り返り、周りの男子と話していた。
 椅子を少し後ろに向けて、机に片肘をつきながら笑っている。
 何か面白いことを言っているのか、後ろの席の男子が肩を揺らして笑い、隣の席の男子もそれにつられるようにくすくすと声を漏らした。
 その笑い声は大きすぎるわけでもなく、授業中のざわめきの中に自然と溶け込んでいる。
 教室では黒板に向かって先生が数式を書き続けていた。チョークが黒板を擦る、微かな音が静かな空気の中に響く。
 雨音はノートに数式を写しながら聞こえる話し声に耳を傾ける。と、一晴の視線がふっと雨音の方へ向いた。
 一瞬だけ、目が合う。
 ほんの一瞬、本当に短い時間だったけれど、確かに視線が重なった。
 けれど、一晴はすぐに視線を逸らす。何事もなかったかのように、また後ろの男子と話し始めた。
 さっきと同じように笑って、何かを言って、周りの男子がまた小さく笑う。
 まるで、今のことなんて最初からなかったみたいに。
 雨音は一瞬、瞬きをして一晴の見つめた。

(……あれ?)

 今、確かに目が合ったはずだ。でも、すぐに逸らされた。
 あまりに自然だったから、もしかしたら自分の思い違いだったのかもしれないと思ってしまうくらい。
 雨音はもう一度ノートに目を落とす。
 そこには、さっき黒板に書かれたばかりの数式が途中まで写されていた。
 ペンを持ち直しながら、小さく息を吐く。

(気のせいかな)

 そう思いながら、ペンを動かした。
 授業は淡々と進んでいく。
 黒板に数式が増えていくたび、ノートにそれを書き写す。チョークの音と、ページを捲る音と、あちこちで小さく鳴るペン先の音。
 静かな教室の中で、それらが重なり合っていた。
 雨音も黒板を見ながら、丁寧に数式を書き写していく。数字を書き、記号を書き、また数字を書く。
 規則正しく並ぶ数式を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着く気がした。
 少しして、また凌が小さく話し掛けてきた。

「小森さん」

 ほとんど息に近い声だった。
 雨音はノートを書きながら、少しだけ顔を向ける。

「何?」
「この式さ、なんでこうなるの?」

 雨音はその式を見て、少し考える。
 教科書の問題文と、黒板に書かれている数式。それを見比べながら、頭の中で順番を整理する。

「ここで、これを代入してるから」

 小さな声でそう言うと、凌は顔を近づけて雨音のノートを見た。
 雨音のノートは、整った文字で数式が綺麗に並んでいる。見やすさ重視の教科書のようなノート。
 凌はしばし眉間に皺を寄せて読んでいた。

「あー、なるほど」

 少ししてから、凌は納得したように頷く。
 指で式をなぞりながら、小さく何度か「うん」と言った。

「ありがと」
「……ううん」

 それだけ答えて、雨音はまたノートを書き始める。
 黒板には次の数式が追加されていた。