雨は嫌いですか、私は好きです

 成瀬一晴。
 名前まで聞いて、ようやく朧気だった記憶がはっきりとする。
 何故、クラスの中心的な存在の彼が、普段は空気同然の地味な雨音に話し掛けたのか。
 雨音は一人、傘が雨粒を弾く音を聞き流しながら釈然としない気持ちだった。

「……えっと、成瀬、さん?」

 さて、彼が一体何処の誰なのか分かった所で。
 今、とてつもない大問題が残っている。とにかく、早急に解決せねばならない大問題が。
 
「傘、そこに貸出の分があると思うんですけど……」

 四段しかない階段の二段目に足を掛けたまま、雨音は一晴の背後を指さした。
 その指先に誘われるように、一晴の視線が背後に向かう。
 ほんの数秒でしかなかったその時間が、やけにゆっくりと流れていた。

「あ」

 昇降口の入口のすぐ傍には、『貸出傘』と書かれた看板が掛かった傘立てがある。その中には数本の傘が立て掛けられていた。

「……わっ、本当だー」

 それを見るなり、一晴はわざとかと思うほど棒読みで言う。
 絶対に思っていない。それは、絶対に知っていた奴が見せる反応だ。
 そこに傘立てがあって、自由に持ち出すために用意された傘があることを知っていて、あんな事を言ったのだ。

「小森さん」
「な、何ですか」

 こうして階段の途中で立ち止まっているのもそろそろ疲れてきた。早く帰りたい。

「入れてくれません? 駅までじゃなくていいです。もう校門出るまででもいいです」
 
 あ、これ駄目かもしれない。
 どんな人が相手であれ断れない性分が思考を邪魔する。このままでは、「いいですよ」と言ってしまう。
 いいのか。他人に都合よく扱われてしまっても。
 今日だって、嘘だと分かっていながらその嘘に乗っかったではないか。
 一晴とて、雨音を都合よく利用しようとしているだけかもしれない。
 それなのに、

「……いいですよ」

 なんて言ってしまった。

「え……マジ?」

 ゆっくりと小さく頷く。傘の取っ手を握る手に力が籠もったのは、ただ緊張しているだけ。
 それだけだと自分に言い聞かせ、一晴の顔を見上げた。

「やった……あっ、い、いや! ちが、うぁ……」

 高校に入学してから二ヶ月近く。彼と同じクラスになってから大して時間が経っていないようですが、一つ分かったことがあります。
 彼は、成瀬一晴は、人を待ち伏せしてしまう初な青年のようです。