雨は嫌いですか、私は好きです

 言ってしまったからには、もう引き下がれない。
 雨音は膝の上で手を握り、俯いたまま必死に頭の中を整理していた。

(ど、どうすれば……)

 これまでずっと「成瀬さん」と呼んできた。
 それが当たり前で、それ以外の呼び方なんて考えたこともなかった。
 なのに、いきなり辞めろと言われても。しかも敬語までなんて。

(そんなの……無理だよ……)

 そう思うのに、つい数秒前に自分が言った言葉が頭の中で繰り返される。
 力になりたい。それは嘘偽りのない本心であった。
 けれど、どうしてか胸の奥がきゅっと締まる。まさか自分の放った一言で、こんな展開になるとは予想もしていなかったから。
 雨音は暴れ回る心臓を落ち着かせるためにも、小さく息を吸った。そして、ゆっくり顔を上げる。
 一晴はすぐ目の前にいた。近づいたままの距離で、面白そうに目を輝かせて見ている。
 逃げられない。
 雨音は一度だけ瞬きをした。それから、ぎこちなく口を開く。

「……な、成瀬……」

 声が止まる。喉が詰まったみたいに言葉が出ない。
 一晴の眉が少しだけ動いた。やっぱり目を見続けることはできなくて、視線を逸らすとぎゅっと目を閉じる。
 それでも、雨音はもう一度息を吸い直すと、はっきりと言った。

「……成瀬君」

 ようやく言えた。その事実を受け入れた瞬間、顔が一気に熱くなる。
 言った雨音は恥ずかしさで視線を落とす。その隣で一晴は目を丸くしていた。
 しばらく石のように固まっていた一晴は、それからふっと笑う。

「うん。いいじゃん」

 満足気に頷いた一晴は、何処か嬉しそうだった。
 雨音は俯いたまま、小さく肩を縮める。

「……慣れま………慣れない、な」
「だろうね」

 ぎこちなく言葉をツムづ雨音を見て、一晴は楽しそうに笑った。けれど、その笑いはこれまでより少し柔らかい。
 そして少しだけ、静かな笑いだった。

「でもさ、分かる気がする」

 雨音は顔を上げ、思わず問い掛けていた。

「何が……ですか」
「あ」

 休憩所の外に向けていた視線を勢いよく雨音に向け、一晴はにやりと不敵な笑みを浮かべる。

「ほら、敬語」

 一拍開けてから、雨音は慌てて口を閉じた。
 言った傍から早速と、一晴は少しだけ笑ってから続けた。

「なんで俺がさ、小森さんといると落ち着くって言ったか」

 心臓が再び強く鳴った。もう何度目かも分からない。