雨は嫌いですか、私は好きです

 一瞬、何を言われたのか脳が理解を拒んだ。

「傘忘れちまったんだー。この雨じゃ帰れそうにないからさ。頼む! 駅まで入れてください!」
「え、え?」

 声を掛けてきた彼は目の前まで来たかと思うと、顔の前で両手を合わせる仕草を見せる。
 頼むよ。と、何度も頻りに言ったかと思えば、ちらりと片目を開けて様子を伺ってきた。

「えっと……あの、だ、誰ですか?」

 音が消えたしーんという音が聞こえる矛盾が生まれるくらい、辺りは一瞬にして静まり返った。
 
「……ええ!?」

 たっぷり数十秒の間を空けて発されたのは、そんな呑気な叫び声。
 話し掛けてきた彼は心外だとでも言いたげに、口を大きく開けて身を仰け反らせた。
 
「お、俺のこと分かんない?」
「すみません。……人の顔を覚えるのは苦手で」

 と言うより、人と目を合わせて話すのが苦手なので。
 流石にそうは言わなかったが、クラスメイトの顔すら覚えていないのに「俺のこと分かんない?」なんて言われても分かるはずがない。
 さっと視線を逸らすと、やけに沈んだ声が頭上から降ってきた。

「えぇー、同じクラスなのに」

 同じ、クラス?
 この人が同じクラスにいる?
 同じクラス。その単語が、雨粒みたいに頭の中でぽたりと落ちた。
 黒板。窓際。ざわめき。笑い声。

(……笑い声?)

 はっとして、もう一度だけ目の前の彼を見る。
 明るい声。人懐っこい目元。浅く日に焼けた肌。少し無造作な前髪。
 教室の中心で、いつも誰かに囲まれている人の姿が浮かぶ。
 名前までは出てこない。けれど、確かにそこにいる人だと遅れて理解した。

「……あ」

 ようやく漏れた声は、雨音にしては少しだけ大きかった。

「お! 思い出した!?」

 期待を滲ませた声に、びくりと肩が跳ねる。
 思い出した、というよりも、教室の景色がゆっくりと焦点を結び始めただけだ。
 窓際の席から見える背中。
 笑い声の中心。
 いつも誰かに囲まれている人。
 黒板の前で、身振り手振りで話していた姿。それが、目の前の彼とようやく重なる。
 眼鏡の奥の目を見開いた雨音を見て、彼はぱっと顔を明るくした。

「俺、成瀬。成瀬一晴(なるせいっせい)!」

 胸を張るでもなく、照れるでもなく、当たり前みたいに名乗る。
 その声音が、教室で聞いたことのある笑い声と確かに同じだと分かった。