雨は嫌いですか、私は好きです

 思いがけない場所で名前を呼ばれたみたいに、一晴は目を丸くしている。

「え、どうしたの?」

 いつもの調子の声だった。雨音がよく知る、「人気者の成瀬一晴」の声。
 けれど、その表情には少しだけ戸惑いが浮かんでいる。
 雨音の心臓が今までにないほどに、うるさく鳴り始めた。

(……言わなきゃ)

 手に持っていた傘の持ちてをぎゅっと強く握る。ほんの少しだけ、手が震えていた。
 雨音は一歩だけ一晴の方に近づくと、傘を差し出す。
 これまで、二回ほど一晴とは駅までの道のりを共にした。あの時は、どちらも一晴から声を掛けてきたけれど。
 雨音は顔を上げ、一晴の目を真っ直ぐと見る。

「……一緒に」

 喉の奥が少しだけ震え、言葉が上手くまとめられない。
 それでも、逃げずに続けたかった。
 今日は雨音の方から誘う。そう心に決めていたから。

「一緒に、帰りませんか?」

 一瞬だけ、時間が止まったように辺りが静まり返った。雨音すらも耳に届かない。
 しばしの間、一晴は差し出された傘と雨音の顔を交互に見た。驚きに見開いたままの目が、ゆっくりと瞬く。

「……いいの?」

 少しだけ遠慮するような声だった。その問い掛けに、雨音は小さく頷く。

「はい」

 それ以上の言葉は出てこなかった。ただ、傘を持つ手に少しだけ力が入る。
 一晴は少しの間迷ったように立ち尽くしていたが、やがてふっと力を抜いて笑った。

「じゃあ……お言葉に甘えようかな」

 そう言った一晴は、これまでを踏まえて味を占めたように雨音の隣に立つ。
 昇降口の外は、しっかりとした雨が降っていた。アスファルトはすでに濡れ、細かな水飛沫が跳ねている。
 雨音はそっと傘を開いた。ぱちん、と軽い音が辺りに響き渡る。
 透明なビニール傘。小学校の頃から使っている、少し小さな傘だった。

(あの時と……同じ)

 開けた傘を空に向かって掲げ、ふと思う。初めて一晴と相合傘をした日のことを。
 あの日も、同じこの小さなビニール傘だった。
 何気なく振り返った放課後。背後から聞こえた声。

『ちょっくら入れてくんね?』

 あの一言が全部の始まりだった。
 ただの偶然。今までの雨音はそう自分に言い聞かせてきた。

「行こっか」

 一晴の声で、雨音ははっと我に返る。

「……はい」

 けれど、あの一言にも何か一晴なりの想いがあったのなら。雨音は気付かなくてはてはならない。
 二人で同じ傘の中で見を縮こまらせて、一歩外へ出た。
 傘の下に入ると、距離がぐっと近くなる。肩が触れそうなほどの近さ。
 雨粒がビニールを叩く音が、すぐ頭の上で響いていた。
 歩き出すと、自然と足並みが揃う。けれど、しばらくの間どちらも何も言わなかった。
 静かな帰り道。校門を出てから聞こえるのは、雨の音と二人の足音だけ。
 それはまるで、最初に一緒に帰った日のようだった。
 ただ、あの時と違うのは――。

(成瀬さんは、今も無理してるのかな)

 昼休みに聞いた凌の話が、胸の奥に残っていること。