雨は嫌いですか、私は好きです

 終礼のチャイムが鳴ると、教室の空気は一気に緩んだ。
 椅子を引く音や、部活の話をする声があちこちで重なっていく。
 雨音は静かに鞄を担ぎ、教室を飛び出した。

(……あれ)

 廊下に踏み出した時、ふと気付く。今日は、誰からも声を掛けられていないと。
 掃除の代わりも、プリント運びも、雑用のお願いも。
 いつもなら、誰かが「小森さんお願いしていい?」と声を掛けてくるのに。

(……珍しい)

 少しだけ肩の力が抜けた。誰かに雑用を押し付けられないことを珍しいと思っている自分に、雨音は呆れすら覚える。
 止めていた足を再び動かし、疎らに生徒が行き交う廊下を進んだ。
 放課後の廊下は、昼間よりも少しだけ騒がしい。部活へ向かう生徒達の足音が辺りに響き渡っていた。
 雨音はその流れに紛れるようにして、昇降口へ向かう。
 靴箱の並ぶ広い空間が見えてきた、その時だった。

「最悪! 梅雨明けたって聞いたのに降ってきた!」

 外から、女子生徒の大きな声が聞こえた。その声に、雨音の足がぴたりと止まる。
 その声と同時に、ぱらぱら、と。屋根や地面を叩く音が、昇降口の外から聞こえてきた。

(……雨、だ)

 思わず顔を上げ、雨音は窓際に寄り外に視線を向ける。
 ガラス越しの外では、灰色の雲が空を覆い始めているところだった。
 校庭のアスファルトに、小さな水の跡が次々と広がっていく。雨粒の音は、少しずつ強くなっていった。

「うわ、マジかよ」
「傘持ってないんだけど」

 昇降口のあちこちで、そんな声が上がる。
 けれど、雨音はその場に立ったまま動けなかった。

(……あ)

 胸の奥で、何かが小さく弾ける。それに気付いた瞬間、自分でも驚いた。

(……もしかして)

 雨。
 放課後。
 昇降口。
 頭の中で、あの日の帰り道が自然と重なってしまう。

(また……)

 小さく息を呑み、自身の胸元を強く握り締める。

(また、一緒に帰れる……?)

 そんな期待が浮かんでしまったことに、雨音はすぐに顔を俯けた。

(何、考えてるの)

 自分でも呆れる。
 ただ、雨が降っただけなのに。それだけで、こんな風に思ってしまうなんて。
 その時、ふと歴史の授業での時間を思い出した。
 先生に名前を呼ばれていた一晴の姿。放課後に職員室へ来るように言われて落胆していた姿。
 それらが鮮明に脳裏に蘇る。

(……そういえば)

 雨音は昇降口の外を見つめたまま、小さく息を吐いた。
 小テストの結果から呼び出された一晴は、今頃、職員室にいるのだろうか。
 そう考えた瞬間、胸の奥がざわついた。

(……いや)

 さすがに、それは行き過ぎている。
 雨音は一歩、外へ出かけた足を止めた。

(待つなんて……)

 そんなの、どう考えてもおかしい。
 約束しているわけでもないし、普段の学校では、ほとんど話すこともないのに。
 それなのに、気付けば、雨音の足は昇降口の前から動かなかった。
 靴を履き替える生徒達が、次々と外へ出ていく。
 雨は、さっきよりも少し強くなっていた。

(……私、やばい奴だよね)

 そう思いながらも。
 それでも雨音は、昇降口の前で小さく立ち止まったままだった。