雨は嫌いですか、私は好きです

 凌は少しの間、何も言わず雨音の目を見る。言葉を選んでいるというより、昔のことを思い出しているようだった。
 やがて、小さく息を吐くと言葉を紡ぎ始める。

「……あいつが変わったのさ、たった一言なんだ」

 雨音は黙ったまま続きを待った。もう、何を言われても受け入れる準備ができたのである。
 凌の視線は雨音の目から離れて、遠くの空に向けられた。

「中学の時さ。誰かがあいつに言ったんだよ」

『成瀬って、つまらないよな』

 ぽつりと落とされたその言葉は、廊下の空気の中でやけに重く響いた。

「別に喧嘩とかじゃない。悪口って感じでもなかった」

 凌は苦笑し、額を手で抑える仕草を見せた。
 思い出したくもない過去を思い出してしまったような。他人のことなのに自分自身が痛みを感じているような。そんな苦しげな表情浮かべる。

「ただの雑談みたいなもん。軽いノリでさ」

 でも、と続けた声は低かった。

「……あいつ、聞いちゃったんだよ」

 その時のことを思い出しているのか、凌の眉が僅かに寄る。
 雨音は知らないはずの当時の一世の姿を想像して、強く唇を噛み締めた。

「小学校からずっと一緒だったから分かるんだ。あいつさ、真面目だったんだよ。本当に」

 勉強も運動も、全部きっちりやる。
 サボることも手を抜くこともない。

「周りに認められたかったんだと思う」

 嫌われたくない。
 呆れられたくない。
 だからこそ、何でも完璧にやっていた。

「でもさ」

 凌は窓枠に背を預けたまま、窓の外に広がる空を見上げた。
 空を見る目が揺れ動いたように見えたのは、きっと雨音の気のせいではない。

「その結果が“つまらない人間”って言われたんだ」

 雨音は、胸の奥をぎゅっと握り締められたような痛みに顔を歪めた。

「多分あいつ、思ったんだろうな。真面目にやって嫌われるなら、俺はどうすればいいんだって」
「そんなの……あんまり、だよ」
「酷いって? 俺だってそう思う。けど、それからだったんだよ。成瀬が変わり始めたのは」

 大きく吸った凌の息は、ほんの少しだけ震えていた。

「勉強ばっかしてるとノリ悪いって言われるだろ?」

 だから誘われた遊びには行くようになった。
 男子の馬鹿話にも混ざるようになった。
 休み時間には巫山戯て笑うようになった。
 最初はぎこちなかったのに、段々と自分のものにして周りに馴染むようになった。
 かつて勉強も運動も完璧に熟した一晴だからこそ、容易にできてしまったのだ。

「それで気付いたらさ、“真面目で完璧な成瀬一晴”はいなくなってた」