雨は嫌いですか、私は好きです

 雨音がそう言うと、一晴は石のように固まった。目を何度も瞬かせ、今の言葉の意味を確かめる。
 数秒の沈黙、

「え、ほんとに?」

 信じきれていない戸惑いの混ざる声で言った。

「……やった」

 ぽつりと零れたその声は、驚くほど無邪気だった。これまでの張り詰めた空気が嘘かと思うほど、子供のように喜んでいる。
 思わず肩の力が抜け、雨音はほっと息を吐いた。
 こんな顔もするんだ、と少しだけ意外に思えて、でも同時に、すごく“らしい”とも思った。
 ああ、こういう人だったな、と。
 ずっと感じていた不安や怖さが、少しずつ解けていく。張り詰めていたものが、ようやく緩んでいくように。

(好きだから、あんなにも怖かったんだね)

 避けられていた時間。
 分からなかった距離。
 一晴が何を考えているのか分からなくて、不安で。
 どうしていいか分からなくて、立ち止まってしまったあの時間も。
 全部、無駄ではなかったのかもしれない。あの遠回りがあったから、今こうして向き合えている気がする。
 その一言で、少しだけ意味が変わった。
 苦しかったはずなのに。今はもう、ちゃんと繋がっていると思えた。
 隣を見れば、一晴はまだ何処か嬉しそうに、それでいて少し照れたように視線を逸らしていた。
 耳の辺りがほんのり赤い気がする。雨に濡れているせいだけではないと、なんとなく分かった。
 その横顔が、やけに近く感じる。
 手を伸ばせば届く距離じゃなくて、ちゃんと隣にいる距離。
 同じ場所にいて、同じ時間を共有している距離。
 それがこんなにも安心するものだとは、知らなかった。

「安心するのは、私も同じだよ」

 雨の音は、変わらず続いている。
 屋根を叩く柔らか音と、遠くで響く水音。少し前まではうるさいくらいだったはずなのに、今は心地良くすら感じる。
 世界が、少しだけ優しくなったようだった。
 息を吸えば、冷たい空気が肺に入ってゆっくりと満たされていく。

「……これから、よろしくお願いします」

 ゆっくりと改めて確かめるように言葉にする。
 この関係をちゃんと始めるために。
 一晴は、一瞬だけ驚いたように雨音を見てから、他の誰にも見せたことのない笑顔を浮かべた。

「こちらこそ」

 帰ってきたのは短い言葉だったけれど、それだけで十分だった。
 余計な言葉はいらないと思えるくらいに、ちゃんと伝わってくる。
 その言葉が、ちゃんと未来に繋がっている気がしたから。
 ふと、視線が合う。ほんの一瞬だけ、どちらともなく笑って。また少しだけ目を逸らす。
 その何気ない遣り取りが、やけに擽ったい。けれど、決して嫌ではなくて。
 むしろ、これから増えていくのかもしれないと思うと、少しだけ楽しみだった。