雨は嫌いですか、私は好きです


「成瀬君……」

 あれだけ荒かった呼吸が逆に詰まる。
 見つけた。やっと、見つけてしまった。
 あと少しで届く距離にいるのに、その一歩がやけに遠く感じる。

「小森、さん?」

 その声は何処か戸惑っていて、名前を呼ばれたこと自体に驚いているようだった。
 ほんの一瞬だけ目が合う。
 けれど、次の瞬間に一晴の表情が歪んだ。
 苦しそうに眉を寄せ、何かを堪えるように唇を噛み、雨音から視線を逸らす。

「……っ」

 何かを言おうとして、けれど言葉にならないまま静寂が辺りを満たした。
 一瞬の沈黙の後、一晴はまた雨音の前から走り出す。

「あ――」

 突然のことに反応が遅れた。
 前と同じ、また逃げられてしまう。そう思った瞬間、身体が先に動いた。

「待って!」

 叫びながら必死に追いかける。到底、雨音の足では一晴には追いつけないだろう。
 そのはずなのに、一晴の足取りは何処か覚束ない。速いようで乱れている。
 だから、すぐに追いついた。
 伸ばした手が、制服の裾を掴む。ぐっと力を込めれば、一晴の動きはピタリと止まった。

「に、逃げないで……っ」

 息が上がって、言葉が上手く繋がらない。それでも、制服の裾を掴む手は離さない。

「逃げないでよ……!」

 雨音は掴んだまま、必死に引き止めた。自分でも聞いたことのない大声が出ても、決して引き下がらない。
 そうすれば、一晴の動きが止まった。けれど、振り返らない。
 背中を向けたまま、ただ立ち止まっている。
 雨が二人の間に降り続く。
 その背中が遠い。手を伸ばせば届く距離なのに。どうしても、遠く感じる。

「……なんで、なんで避けるの」

 これまでに何度も繰り返してきたのに、自分でも抑えられなかった。

「私、何かした?」

 頬を大粒の雫が伝う。涙なのか、雨粒なのか、もう理由も分からなかった。
 縋り付くように見上げても、答えは返ってこない。
 一晴は何も言わないまま、自身の足元に視線を落としていた。それが、余計に怖い。

「何も言わないで、急にあんな風にされて……分かんないよ……」

 朝の騒がしさが残る教室に入れば、笑顔で話し掛けてきた。
 何度も「小森さん」と呼んで、くだらない話で笑って。
 ずっと嫌いだった雨を。
 降らないでほしいと思っていた雨を。
 特別で、好きだと思わせてくれたのは、紛れもない同じ傘の中で過ごした時間なのに。

「分かんないまま、離れてくの……嫌だよ」

 制服の裾を握る手に更に力が入る。
 逃がさないように、今度こそ手放さないように、強く掴み続けた。

「せめて、理由くらい……教えてよ……」

 声が掠れるけれど、浮かぶ言葉を腹の底から絞り出す。
 ずっと胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ零れていった。

「じゃないと、どうすればいいのか分かんないし……」

 言葉が途切れる。呼吸が乱れて、上手く続かない。
 それでも。

「……このまま終わるの、やだ」

 溢れ出た言葉は、自分でも思ってもみないことだった。
 自分自身で発した言葉に驚きながらも、雨音は一晴の後ろ姿から目を逸らさない。
 何かを言うまで、決して逸らさなかった。それなのに、一晴はまだ振り返ろうとしない。
 背中を向けたまま、雨に打たれながら、ただそこに立っている。