雨は嫌いですか、私は好きです

 一晴は灰色の空を見上げたまま、いつまで経っても動こうとしない。
 肩も、髪も、少しずつ雨に濡れているのに。まるで、それに気づいていないようである。
 ただ、ぼんやりと上を見ていた。その横顔が、手が届かないほど遠く感じる。
 今までずっと、あんなに近くにいたのに。
 見つけたのに。見つけてしまったのに。どうすればいいのか、分からなくなる。
 逃げるなら、今だと思った。見なかったことにして、戻ってしまえばいい。
 そうすれば、きっと傷つかずに済む。それでも、それでも。
 ここまで来たのに。確かめたいと思ってしまったのに。
 意思に反して足が一歩前に出る。
 濡れた地面に靴底が軽く音を立てた。その小さな音でさえ、やけに大きく感じる。
 それでも止まらない。もう、止まれなかった。
 何を言えばいいのかなんて考えられない。それでも、言葉は一つしか浮かばなかった。
 意を決して一歩を踏み出し、雨音は声を出す。

「……成瀬君」

 呼び止める声は、思っていたよりも小さかった。それでも確かに、激しくも繊細な雨の中に溶ける。
 雨音が口にしたその名前に、僅かに反応があった。
 一晴の肩が、ほんの少しだけ揺れる。ゆっくりと、顔が雨音の方に向いた。
 真っ直ぐと目が合い、その瞬間に時間が止まったみたいに感じた。
 昼休みに廊下で見た時とは違う、 驚いたような、戸惑ったような顔。そんな顔に、ほんの一瞬だけ隙が見えた気がした。

「……小森さ――」

 何かを言い掛ける。けれど、その声は思っていたよりも低くて僅かに掠れていた。
 きっと、その言葉には続きがあるはずで、何かが零れるはずで。
 けれど次の瞬間、 一晴の表情がすっと変わる。
 今までの僅かな揺らぎが無かったことのように消えていく。

「……ごめん」

 やっと目が合ったのに、すぐに目を逸らして短くそれだけを言った。
 それ以上は何も言わずに、くるりと雨音に背を向ける。

「まっ――」

 呼び止めるよりも早く、一晴はその場を走り出していた。濡れた地面を踏む音が早くなる。
 まるで逃げるように、振り返ることもなく、そのまま校門の向こう側へと消えていく。
 残されたのは、雨音だけ。
 そこにいたはずの気配も、すぐに薄れていく。
 理解が追いつかなかった。今、何が起きたのか。
 どうして、あんな風に避けるだけでは終わらず逃げられてしまったのか。
 ようやく見つけたのに、呼び止めたのに、言葉は何も交わしていないのに。

(なんで……なんで、なん、で?)

 足が、動かない。
 追いかけなきゃ、と思うのに。身体がその命令を受け取ってくれない。
 ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。