雨は嫌いですか、私は好きです

 廊下での遣り取り。あの目。あの声。それらを思い出すと、胸の奥がまた重くなる。
 考えたくないのに、勝手に浮かんでくる。
 振り払おうとしても、同じところをグルグルと回るだけで何処にも逃げ場がない。

「……はあ」

 小さく溜息が零れる。吐き出したはずの息は、胸の奥に残ったまま重く沈んだ。
 もう何度目の溜息かも分からない。理由も、意味も、何もかも。
 気分を誤魔化すために窓の外を見ると、雨はむしろ強くなっているようだった。粒が大きくなって、ガラスにぶつかる音が鈍く響く。
 帰る頃には、もっと酷くなっているかもしれない。
 どうせ、あの小さなビニール傘なんてまともに使えないのに。
 朝、ひっくり返った傘の感触が指先に蘇る。制服は乾いてとうに体操服から着替えていたけれど、その感触だけは消えない。
 冷たい雨が一気に背中へ流れ込んできた、あの瞬間。思い出しただけで、肩が少し竦んだ。
 そんなことを考えながら、掃く手を止める。箒の先が床に触れたまま動かない。
 しばらく、ただ雨を眺めていた。
 白く滲んだ景色の向こうに、何も見えないのに。それでも目を逸らせなかった。
 時間の感覚が、少しずつ曖昧になっていく。
 チャイムも鳴らない放課後は、やけに長く感じた。

「おや、まだ残っていたのかい」

 不意に声を掛けられて、肩が跳ねた。
 反射的に振り向くと、教室の入口に用務員の阿部さんが立っている。いつもの穏やかな顔で見ていた。

「あ、掃除当番で……」

 言いながら、少しだけ箒を握る手に力が入る。
 見られていたことに、一抹の気まずさを覚えた。慣れたことであるはずなのに、やけに大げさな態度を取ってしまう。

「そうかそうか。偉いねえ」

 ゆっくりと頷きながら、阿部さんは教室の中を見渡す。
 机の並びや床の様子を眺めて、もうほとんど片付いているのを確認すると、安心したように微笑んだ。

「でもねえ、そろそろ帰らないと、雨が強くなってしまうよ」

 教室の入口から遠い目で窓の外を見た阿部さんは、雨音の身を心配しているようで独り言でしか無い呟きを零した。
 その言葉につられて雨音も外を見る。
 阿部さんの言う通り、明らかに雨脚が強まっている。ガラスに叩きつける音がより重くなっていた。
 教室から見える校庭は、水溜りだらけで誰もいない。
 そろそろ帰らなければ土砂降りになってしまう。そう頭では分かっているのに。
 何故か、すぐには動けなかった。足の裏が床に貼りついたように重い。

「気をつけて帰るんだよ」

 阿部さんはそれだけ言って、ゆっくりと廊下へ戻っていく。
 その背中をなんとなく目で追ってしまった。