雨は嫌いですか、私は好きです

 玄関の扉を開けた瞬間、激しい音が耳に飛び込んできた。
 地面を叩きつけるような雨。屋根を打つ鈍い音が、空気ごと震わせている。
 視界の先は白く滲んで、いつもの景色が何処か遠くにあるようだった。
 道路の向こう側も、ぼんやりとしか見えない。
 細かい粒が、絶え間なく落ちてくる。空と地面の境目が、曖昧になっていた。

「すごい雨ねぇ」

 玄関先で突っ立っていると、後ろから母の声が掛かる。
 少しだけ呆れたような、けれど少し楽しそうな響き。

「風邪引かないようにね」
「……うん」

 視線は前に向けたまま、頷いて短く答える。
 そのまま迷うことなく傘立てから一本を取った。透明なビニール傘。 少しだけ歪んだ骨組みも、手に馴染む重さも、全部見慣れている。
 これを持って外に出るのが、当たり前みたいに。何度も繰り返してきた動作だった。
 指先に力を込めて開く。
 ばさり、と音が広がった。閉じていた世界が、一枚向こうにできる。
 雨粒が降り注ぐ音がすぐ近くに変わる。外の激しさを、そのまま薄く隔てる膜のように。
 玄関を出て道路に一歩を踏み出せば、足元に水が跳ねた。
 靴の先に冷たい感触が伝わる。制服の裾に細かい飛沫が当たる。
 じわりと、湿っていく感覚。それでも、足は止まらなかった。
 いつも通りの通学路。
 いつも通りの道順。
 頭で考えなくても進めるくらい、身体に馴染んだ道。
 歩幅も、速度も、ほとんど変わらない。傘に当たる雨の音だけが、少しだけ違っているくらいで。

「……っ」

 そのはずだった。
 交差点の手前で、ふと足を止める。信号は青に変わりかけている。いつもなら、そのまま渡るタイミング。
 けれど、その場にほんの一瞬だけ留まった。
 靴の底に伝わる濡れたアスファルトの感触。 傘越しに見える、滲んだ景色。
 その中で、心の奥に引っ掛かるのがあった。ほんの小さな、でも無視できない違和感。
 何処へ行くのか分かっているのに、わざわざ確認するように足が止まる。
 ほんの一瞬だけ迷ってしまった。
 行かなくてもいい、という選択がある。そのまま、いつも通りに学校へ向かうだけでいいはずなのに。
 何も起こらないまま、今日を終わらせることもできるのに。

(見に行くだけ、それだけなら……)

 次の瞬間には、もう決まっていた。
 そのまま真っ直ぐには進まずに、交差点渡らないまま横に逸れる。
 少しだけ遠回りになる道。人通りも少なくて、時間も余計に掛かるルート。
 それなのにこの道を選んだ理由は、自分でも分かるほどはっきりしていた。
 考えなくても、身体が選んでいるよに。それでも、言葉にはしないまま。
 ただ、足を進める。

(雨、止まないなぁ)

 ビニール傘越しに降り注ぐ雨は、相変わらず強かった。久々に梅雨を感じさせるほどの大雨。
 傘に当たる音が、一定のリズムで続いている。
 ざあ、という音に紛れて、自分の足音はほとんど聞こえない。
 いつの日か、誰かが梅雨明けをしたと言っていたけれど、そんなものはまやかしだったようだ。
 周りの気配少し遠い。その中をただひたすら歩いた。
 一歩ずつ確かめるために歩けば、少しずつ見慣れた景色が変わっていく。
 住宅街を抜けて、似たような家並みが減っていった。
 小さな道を曲がれば、水溜まりを避けながら足元だけを見る時間が増える。
 それでも、進む方向は変わらない。
 やがて、視界が開ける。遮るものが少なくなって、雨の広がりがそのまま見えた。