想いと共に花と散る

 雪の目の前に立っていたのは、背丈の高い、黒い羽織を無造作に羽織って酒の臭いを纏う男だった。
 乱れた黒髪に血走ったような眼、腰には豪奢な太刀を携えている。
 その姿は、雪がこれまで見てきた沖田や藤堂の「朗らかな武士」とはまるで別物だった。

「……何者だぁ、貴様は」

 低く、荒れた声が雪の鼓膜を突き刺す。
 まるで野犬にでも睨まれたような、そんな本能的な恐怖が雪の背筋に走った。
 男はふらつく足取りで近づき、ぬっと顔を寄せてくる。酒気が混じった熱い息が雪の頬を撫でた。

「見ない顔だなぁ。誰の許しでここにいるんだ?」

 刀を抜いたわけではないのに、刀の切っ先を向けられるのかと錯覚するほど恐怖が身体を支配する。
 喉が引き攣り、箒を持つ手が微かに震えた。地に根を張ったように動き出せない。
 男はその様子を見てニヤリと笑い、雪の髪を乱暴に掴んだ。ぐらりと視界が歪み、地面に箒が転がる。

「いっ!」
「ちっせえ餓鬼じゃねぇか。なんだ、壬生浪士組は子守りまでするのか」
「……っ!」

 女々しく腰まで伸びた髪を男に掴まれたせいで、雪は抵抗することすらままならない。
 痛みと恐怖が身体をその場に縛り付けていた。
 
「雪!」

 沖田と藤堂が動き出そうとすると、雪に向けられていた男の視線が彼らに向けられる。
 想像を絶するほどの剣圧、沖田と藤堂はそれによって動きを封じられた。
 雪には恐怖を植え付ける圧力にしか感じられないが、刀を握る彼らだからこそ気が付くのである。

「……ははっ、何、目が合っただけだろ?」

 声音こそ明るくとも、その目には光がない。目の前の存在をただ敵と認識する、獣の如く鋭い目であった。
 男の剣圧に怯みながらも、沖田と藤堂はじりじりと距離を詰める。
 手を出すことすら憚られる彼らの身体を動かすのは、男を雪から引き剥がす、ただその一心であった。
 二人の姿が目に入り、「助けて」と声を出そうとしたその時――。
 ヒタ、と静かな足音が二つ近づいたかと思うと、男の肩に無造作に誰かの手が置かれた。

「……芹沢さん」

 低く、冷えた声が聞こえた。雪にも聞き覚えのある、あの声。 
 庭に植えられた木々がざわめき、屋敷の屋根に止まっていた鳥達が一斉に飛び立った。