土方は上がる息を整え、ゆっくりと刀を下げる。刃先から落ちる血が、畳に小さな点を作った。
「ふう……」
夜はまだ静かだ。開ける気配は未だ見せない。
結果的に、五稜郭占領まで大規模な戦にはならなかった。
だが、ここは今確かに土方達が占領した。旧幕府軍側の一歩前進である。
刀の血を拭い、土方は奉行所の広間へ足を踏み入れた。
後からやって来た旧幕府軍側の兵士に灯りを入れさせると、窓際に寄って外を見た。
この場所が、これから政の中心になる。
武士の残り火が、最後に燃え上がる場所。中央庭園の向こう、土塁の高みが見える。
(一先ず、大仕事は終わりだな)
遠くの方に、ほんの僅かに闇の中に光る線が見えた。
宵闇に浮かぶ月を反射する海。函館湾だ。
黒く広がる水面が、月明かりを受けて鈍く光っている。
本州は、あの向こうにあった。もう戻れない地、帰る場所ではない。
灰になったもの。
守れなかったもの。
守ると決めたもの。
京でかつての仲間と交わした約束。
江戸での敗走。
燃えた城。
散った隊士。
全部を背負って、ここに立っている。
「土方」
小さな明かりが灯るだけの薄暗い広間に榎本が入ってくる。
軍服の裾に土が着いていたが、それでも姿勢は崩れなかった。
「……終わったな」
「ああ」
互いに短い応答だけ。
勝利の歓声も、酒も、まだない。ただ、一つの工程が終わっただけだ。
「これからはここが本拠地になんだ。明日より整備を始めねぇと」
榎本の声は静かだが、確かな熱を帯びている。
蝦夷共和国。その始まりが今この瞬間であった。
夢物語だと笑う者もいるだろう。しかし、この男は本気だ。
理屈で生きてきたと自称するからこそ、生半可な気持ちで生きていないと分かっている。
土方は隣りに立った榎本から視線を外し、再び外を見た。
あの海の向こうに、置いてきた過去がある。
だが、ここにはまだ守るものがいる。
ふと、脳裏に浮かぶ顔。灰に塗れ、泣き崩れた顔。それでも前を向こうとする目。
あの小姓であれば、きっとこの海を見て笑うだろう。
「海だ!」と。
くだらないほど無邪気に、戦も政も知らない顔で。
(それでいい……それでいいんだよ)
何も知らなくていいから、その顔だけは曇らせたくはなかった。
ふ、と小さく息を吐く。
「……大仕事が終わった」
誰に言うでもなく呟く。
ならば、一日くらい副長でも指揮官でもない時間を。
刀も銃も持たず。
ただの男として。
窓の外の海を見据えながら、土方は静かに決めた。
(行こう。連れてってやろう、あそこへ)
場所は告げない。あの海の近くへ行くまで、秘密にして。
戦場でも、政の中心でもない場所へ。
「明日、少し出る」
それだけ言えばいい。理由は言わない。
言葉にすれば、軽くなってしまう。
「おう」
夜が、五稜郭を完全に包み込んだ。星形の郭は、静かに新しい主を迎え入れる。
そしてその高みから、海は変わらずそこにあった。
遠く、深く、冷たく。それでも、確かに光っていた。
「ふう……」
夜はまだ静かだ。開ける気配は未だ見せない。
結果的に、五稜郭占領まで大規模な戦にはならなかった。
だが、ここは今確かに土方達が占領した。旧幕府軍側の一歩前進である。
刀の血を拭い、土方は奉行所の広間へ足を踏み入れた。
後からやって来た旧幕府軍側の兵士に灯りを入れさせると、窓際に寄って外を見た。
この場所が、これから政の中心になる。
武士の残り火が、最後に燃え上がる場所。中央庭園の向こう、土塁の高みが見える。
(一先ず、大仕事は終わりだな)
遠くの方に、ほんの僅かに闇の中に光る線が見えた。
宵闇に浮かぶ月を反射する海。函館湾だ。
黒く広がる水面が、月明かりを受けて鈍く光っている。
本州は、あの向こうにあった。もう戻れない地、帰る場所ではない。
灰になったもの。
守れなかったもの。
守ると決めたもの。
京でかつての仲間と交わした約束。
江戸での敗走。
燃えた城。
散った隊士。
全部を背負って、ここに立っている。
「土方」
小さな明かりが灯るだけの薄暗い広間に榎本が入ってくる。
軍服の裾に土が着いていたが、それでも姿勢は崩れなかった。
「……終わったな」
「ああ」
互いに短い応答だけ。
勝利の歓声も、酒も、まだない。ただ、一つの工程が終わっただけだ。
「これからはここが本拠地になんだ。明日より整備を始めねぇと」
榎本の声は静かだが、確かな熱を帯びている。
蝦夷共和国。その始まりが今この瞬間であった。
夢物語だと笑う者もいるだろう。しかし、この男は本気だ。
理屈で生きてきたと自称するからこそ、生半可な気持ちで生きていないと分かっている。
土方は隣りに立った榎本から視線を外し、再び外を見た。
あの海の向こうに、置いてきた過去がある。
だが、ここにはまだ守るものがいる。
ふと、脳裏に浮かぶ顔。灰に塗れ、泣き崩れた顔。それでも前を向こうとする目。
あの小姓であれば、きっとこの海を見て笑うだろう。
「海だ!」と。
くだらないほど無邪気に、戦も政も知らない顔で。
(それでいい……それでいいんだよ)
何も知らなくていいから、その顔だけは曇らせたくはなかった。
ふ、と小さく息を吐く。
「……大仕事が終わった」
誰に言うでもなく呟く。
ならば、一日くらい副長でも指揮官でもない時間を。
刀も銃も持たず。
ただの男として。
窓の外の海を見据えながら、土方は静かに決めた。
(行こう。連れてってやろう、あそこへ)
場所は告げない。あの海の近くへ行くまで、秘密にして。
戦場でも、政の中心でもない場所へ。
「明日、少し出る」
それだけ言えばいい。理由は言わない。
言葉にすれば、軽くなってしまう。
「おう」
夜が、五稜郭を完全に包み込んだ。星形の郭は、静かに新しい主を迎え入れる。
そしてその高みから、海は変わらずそこにあった。
遠く、深く、冷たく。それでも、確かに光っていた。



