函館の夜は昼以上に冷える。
吐く息が白くなるほどではないが、燭台の火がやけに頼りなく揺れて見えた。
机上に広げられたのは、五稜郭の見取り図。星形の稜堡、郭門、兵糧庫、奉行所跡、各砲台の位置。
すでに何度も目を通した図面だ。
そんな図面を覗き込んでいた榎本が腕を組み、顔を上げると低く言った。
「正面からは攻められねぇ。損耗が無駄に増えるだけだ」
榎本の対面には、大鳥が冷静沈着な目で地図を睨んでいる。
地図に目を落とす彼は何も言わない。その隣で、中年の男が地図に手を置いた。
「内応の手筈は整っておる。門番の交代刻に合わせれば、混乱は最小限で済むぞ」
江戸時代末期の旗本、大政奉還の立役者となった永井尚志が静かに補足する。
「新政府軍は未だ本格的な攻勢を整えておらぬ。今のうちに本拠を確保すべきだ」
土方は壁際に背を着け、彼らの話を黙って聞いていた。
感情を挟む余地はない。
五稜郭は城ではなく、拠点であり象徴だ。蝦夷地における旧幕府軍の旗印になる場所なのだ。
「……兵は?」
短く問う土方の声が部屋に響く。
そんな土方の問いに、肩から垂らした髪を揺らして大鳥が答える。
「歩兵隊を三手に分ける。第一陣は正門付近に陽動。第二陣が裏手より侵入。第三陣は予備として待機」
「砲は使わねぇのか」
「極力避けたい。建物を傷つければ、後々の統治に響くからね」
大鳥の冷静な判断に、榎本が軽く頷いた。彼にしては随分と素直な反応である。
「血は最小限で済ませてぇ」
理屈で生きてきた男の面影を見せる榎本の言葉に、土方は鼻で息を吐いた。
榎本が語るのは、所詮理想論だ。だが、必要な理想でもある。
「甘い手順で失敗すりゃ、士気は地に落ちる。だから、確実に取らねぇと」
その一言で、場の空気が締まった。
部屋にいるのは、榎本武揚、大鳥圭介、永井尚志、松平太郎、荒井郁之助、土方歳三、そして数名の隊長格。
皆、立場を持つ大人の顔をしている。誰も“浪漫”では動いていない。
「土方よぉ」
榎本が壁際で腕を組む土方に視線を向ける。
その目には、有無を言わせない凄みがあった。土方も感情を消した色のない目を向ける。
「歩兵の統率は任せていいよな」
「……ああ」
答えるのはそれだけ。
副長としてではない。今は一軍の指揮官であり、新選組ではない。旧幕府軍の武官だ。
机の上に広げられた星型の図面を見る。
ここを取る。取らねばならない。
五稜郭を取ることが、未来へと進み敵に抵抗するための一歩なのだから。
「……っ」
一瞬だけ、灰に塗れた小さな手が脳裏を過った。
火に直接入れたのだろう傷付いた掌、涙で歪む顔、震える身体。
『戻んないよ』
この蝦夷の地で見ることはないと思っていた姿を見てしまった。
ずっと見せていなかったから、これからも見ることはないと思っていたのに。
(……考えるだけ無駄だ)
過去に縛られるなと自分で言ったのだ。未来を語るこの場で、そんな事を考えている場合ではない。
「情は、戦の後だ」
無意識に零れた土方の言葉に、誰も反応しなかった。
やがて、椅子を引いて榎本が立ち上がる。その顔には確かな決意が滲んでいた。
「決まりだ。今夜、動く」
椅子が引かれる音が重なり、軍議は終わった。
戦は始まる。守るべきは未来であると、この場にいる誰もが理解していた。
吐く息が白くなるほどではないが、燭台の火がやけに頼りなく揺れて見えた。
机上に広げられたのは、五稜郭の見取り図。星形の稜堡、郭門、兵糧庫、奉行所跡、各砲台の位置。
すでに何度も目を通した図面だ。
そんな図面を覗き込んでいた榎本が腕を組み、顔を上げると低く言った。
「正面からは攻められねぇ。損耗が無駄に増えるだけだ」
榎本の対面には、大鳥が冷静沈着な目で地図を睨んでいる。
地図に目を落とす彼は何も言わない。その隣で、中年の男が地図に手を置いた。
「内応の手筈は整っておる。門番の交代刻に合わせれば、混乱は最小限で済むぞ」
江戸時代末期の旗本、大政奉還の立役者となった永井尚志が静かに補足する。
「新政府軍は未だ本格的な攻勢を整えておらぬ。今のうちに本拠を確保すべきだ」
土方は壁際に背を着け、彼らの話を黙って聞いていた。
感情を挟む余地はない。
五稜郭は城ではなく、拠点であり象徴だ。蝦夷地における旧幕府軍の旗印になる場所なのだ。
「……兵は?」
短く問う土方の声が部屋に響く。
そんな土方の問いに、肩から垂らした髪を揺らして大鳥が答える。
「歩兵隊を三手に分ける。第一陣は正門付近に陽動。第二陣が裏手より侵入。第三陣は予備として待機」
「砲は使わねぇのか」
「極力避けたい。建物を傷つければ、後々の統治に響くからね」
大鳥の冷静な判断に、榎本が軽く頷いた。彼にしては随分と素直な反応である。
「血は最小限で済ませてぇ」
理屈で生きてきた男の面影を見せる榎本の言葉に、土方は鼻で息を吐いた。
榎本が語るのは、所詮理想論だ。だが、必要な理想でもある。
「甘い手順で失敗すりゃ、士気は地に落ちる。だから、確実に取らねぇと」
その一言で、場の空気が締まった。
部屋にいるのは、榎本武揚、大鳥圭介、永井尚志、松平太郎、荒井郁之助、土方歳三、そして数名の隊長格。
皆、立場を持つ大人の顔をしている。誰も“浪漫”では動いていない。
「土方よぉ」
榎本が壁際で腕を組む土方に視線を向ける。
その目には、有無を言わせない凄みがあった。土方も感情を消した色のない目を向ける。
「歩兵の統率は任せていいよな」
「……ああ」
答えるのはそれだけ。
副長としてではない。今は一軍の指揮官であり、新選組ではない。旧幕府軍の武官だ。
机の上に広げられた星型の図面を見る。
ここを取る。取らねばならない。
五稜郭を取ることが、未来へと進み敵に抵抗するための一歩なのだから。
「……っ」
一瞬だけ、灰に塗れた小さな手が脳裏を過った。
火に直接入れたのだろう傷付いた掌、涙で歪む顔、震える身体。
『戻んないよ』
この蝦夷の地で見ることはないと思っていた姿を見てしまった。
ずっと見せていなかったから、これからも見ることはないと思っていたのに。
(……考えるだけ無駄だ)
過去に縛られるなと自分で言ったのだ。未来を語るこの場で、そんな事を考えている場合ではない。
「情は、戦の後だ」
無意識に零れた土方の言葉に、誰も反応しなかった。
やがて、椅子を引いて榎本が立ち上がる。その顔には確かな決意が滲んでいた。
「決まりだ。今夜、動く」
椅子が引かれる音が重なり、軍議は終わった。
戦は始まる。守るべきは未来であると、この場にいる誰もが理解していた。



