妾宅の格子戸が、静かに閉まった。もう後戻りはできない。
扇子を閉じ腕を組んだ伊東は一人、夜気の中に立った。
灯りの名残が背に残り、路地の闇がゆっくりと前へ伸びてくる。
(……近藤勇。人情に溢れ、人々に慕われるのは生まれながらに持ってした才能)
酒は交わした。言葉も尽くした。
互いに笑い、昔話をし、最後まで刃を抜くことはなかった。
それが何より、答えだった。
(あの人は変わらない。だからこそ——……己が志す誠の裏に“我儘”があることに気付けない)
伊東は羽織を正し、扇子を広げて口元を覆って歩き出す。
油小路へ抜ける道。石畳に草履の音が、一際大きく響いた。
「……月だけは綺麗ね」
ゆっくりと歩きながら、ふと夜空を見上げる。何処となく漂ってくる血の匂いは、空に浮かぶ月だけは汚すことができない。
風が止む。夜鳥の声が消える。明かりが消える。
その違和感に気づいた瞬間に、前方の闇が動いた。
「伊東甲子太郎参謀」
低く、張りのある声が伊東を呼び止めた。伊東は立ち止まり、目を細める。
月明かりの下に現れたのは、見慣れた顔だった。
「原田左之助……それに」
「永倉新八もいるぞ」
永倉が刀を抜き、眼前に構えたまま言う。
後方、左右——さらに数名の新撰組隊士が無言で包囲を狭めてくる。
(やはり、ここだったわ)
伊東は深く息を吸い、気持ちを落ち着かせることに集中する。
夜の冷えた空気を肺いっぱいに吸うと、少しずつ気分が静まっていった。
閉じていた目を開けて、正面に立ち塞がる原田に微笑み掛ける。
「随分と手厚いお迎えね」
「てめぇを一人で斬らせるほど、甘くねぇんだよ」
原田の声には、冗談めいた調子はない。
「それは、私の腕前を見越してのことかしら」
微笑みを崩さず戯けてみせると、分かりやすく原田は表情を歪めた。
構えていた槍を突き出し、伊東を射殺さんばかりの眼光で睨め付ける。
「局長と、何を話した」
原田の斜め後ろで刀を構える永倉が問い掛ける。
分かりきっていることを敢えて問うのは、伊東から人を切った後に必ず纏う血の匂いがないから。
少なくとも、伊東は近藤を殺していないことを永倉は分かっていた。
「まさか、和解でもしたつもりではないだろうな」
永倉の問いに、伊東は微かに声を出して笑った。
「和解? いいえ。ただ……確かめただけですわ」
「何をだ」
「新撰組が、まだ同じ場所に立っているかどうかをよ」
原田の目が、鋭く細まる。電光石火の如き視線が激しく火花を上げた。
「答えは?」
「変わらない。だから、危ういの」
力なく首を振り、開いていた扇子を閉じる。
何処か気の抜けた態度を取る伊東の言葉に、永倉が我慢できずに一歩踏み出した。
「……巫山戯るな。局長は、新撰組そのものだ。それを斬るってことが、どういう意味か分かっているのか」
扇子を閉じ腕を組んだ伊東は一人、夜気の中に立った。
灯りの名残が背に残り、路地の闇がゆっくりと前へ伸びてくる。
(……近藤勇。人情に溢れ、人々に慕われるのは生まれながらに持ってした才能)
酒は交わした。言葉も尽くした。
互いに笑い、昔話をし、最後まで刃を抜くことはなかった。
それが何より、答えだった。
(あの人は変わらない。だからこそ——……己が志す誠の裏に“我儘”があることに気付けない)
伊東は羽織を正し、扇子を広げて口元を覆って歩き出す。
油小路へ抜ける道。石畳に草履の音が、一際大きく響いた。
「……月だけは綺麗ね」
ゆっくりと歩きながら、ふと夜空を見上げる。何処となく漂ってくる血の匂いは、空に浮かぶ月だけは汚すことができない。
風が止む。夜鳥の声が消える。明かりが消える。
その違和感に気づいた瞬間に、前方の闇が動いた。
「伊東甲子太郎参謀」
低く、張りのある声が伊東を呼び止めた。伊東は立ち止まり、目を細める。
月明かりの下に現れたのは、見慣れた顔だった。
「原田左之助……それに」
「永倉新八もいるぞ」
永倉が刀を抜き、眼前に構えたまま言う。
後方、左右——さらに数名の新撰組隊士が無言で包囲を狭めてくる。
(やはり、ここだったわ)
伊東は深く息を吸い、気持ちを落ち着かせることに集中する。
夜の冷えた空気を肺いっぱいに吸うと、少しずつ気分が静まっていった。
閉じていた目を開けて、正面に立ち塞がる原田に微笑み掛ける。
「随分と手厚いお迎えね」
「てめぇを一人で斬らせるほど、甘くねぇんだよ」
原田の声には、冗談めいた調子はない。
「それは、私の腕前を見越してのことかしら」
微笑みを崩さず戯けてみせると、分かりやすく原田は表情を歪めた。
構えていた槍を突き出し、伊東を射殺さんばかりの眼光で睨め付ける。
「局長と、何を話した」
原田の斜め後ろで刀を構える永倉が問い掛ける。
分かりきっていることを敢えて問うのは、伊東から人を切った後に必ず纏う血の匂いがないから。
少なくとも、伊東は近藤を殺していないことを永倉は分かっていた。
「まさか、和解でもしたつもりではないだろうな」
永倉の問いに、伊東は微かに声を出して笑った。
「和解? いいえ。ただ……確かめただけですわ」
「何をだ」
「新撰組が、まだ同じ場所に立っているかどうかをよ」
原田の目が、鋭く細まる。電光石火の如き視線が激しく火花を上げた。
「答えは?」
「変わらない。だから、危ういの」
力なく首を振り、開いていた扇子を閉じる。
何処か気の抜けた態度を取る伊東の言葉に、永倉が我慢できずに一歩踏み出した。
「……巫山戯るな。局長は、新撰組そのものだ。それを斬るってことが、どういう意味か分かっているのか」



