雪はその夜、八木邸の母屋の奥にある小部屋で、誰の目にも触れず静かに一夜を過ごした。
 幸いにも他の隊士に見つかることもなく、気の張り詰めたままではあったが、畳の匂いに包まれた静けさの中で、いつしか眠りに落ちていた。
 翌朝。
 戸が控えめに叩かれ、雪ははっと目を覚ます。すぐに、戸の向こうから低い声が響いた。

「起きろ」

 土方の声だ。やや眠気を残した頭を揺さぶられるようなその一言に、雪は慌てて身を起こし、障子を開けて彼の前に姿を見せた。
 土方は変わらず機嫌そうな表情を崩さぬまま、ちらりと雪を一瞥すると、無言で背を向けて歩き出す。雪はその後ろに静かに続いた。
 奥まった部屋を出ると、途端に空気が変わる。
 廊下にはすでに朝の気配が満ち、何処かからは水を汲む音、遠くからは隊士達の話し声が聞こえてきた。
 屋敷を抜け、土方は足早に離れへと向かう。離れの方角からは、稽古のものらしい激しい足音や掛け声が絶え間なく響き、八木邸の朝が本格的に動き出しているのが伝わってくる。

「お前はあそこに隠れてろ。他の奴らに見つからねぇようにな」
「えっ、あそこに?」
「いいから、さっさと行け」

 甲高い打撃音が鳴り響き、人々の騒がしい声が聞こえる部屋の前に立ち止まった土方は、玄関口付近の影の中を指さして言った。
 先程いた奥座敷とは違って、今二人の前にある部屋の中からは大人数の話し声が聞こえる。
 今、この障子を開けて雪が中に入りでもすれば、混乱を招くのは考えずとも分かることだ。土方が執拗に心配するのは無理からぬことである。
 雪は土方に言われた通りに玄関口付近の影の中に入り、土方が騒がしい部屋の中へ入っていく様子を眺めた。

「総司。おい、総司」

 障子を開けて中に入った土方は、壁にもたれ掛かってうつらうつらと船を漕いでいる一人の青年の前に膝を折った。
 薄っすらと目を開けた青年は虚ろな瞳を土方へと向ける。

「んあ……土方さん、何か用ですか?」
「少し頼みたいことがある。ちょっくら町へと行ってほしいんだ」
「町にですか? また墨と和紙を買いに行けと?」
「いや、今回はちぃと事情があってな。詳しいことは後で話す」
「そういうことですかー。分かりました、いいですよ」
「それと、できればもうひとり連れて行ってほしいんだけどよ……おい、平助! こっち来い」

 部屋の中を見渡しながらそう告げる土方の目にちょうど部屋の前を通り掛かろうとした一人の隊士の姿が入った。
 呼び止められた隊士はビクリと身体を震わせてその場に立ち止まる。
 土方は立ち上がって困惑した様子の彼の元へと足早に近づいた。

「な、なんスか……土方さん」
「ちょうどいいところに。お前も同行しちゃあくれねぇか、総司一人じゃ心許ねぇからよ」
「え? いやちょっと……なんだって俺が。てか、何処に行けってんですか?」
「まあ、来れば分かる」

 有無を言わさぬ圧力で捲し立てた土方は、二人を連れて玄関口へと向かう。
 土方は辺りを見渡し、影の中からおずおずと顔を覗かせる少女と目を合わせた。
 背後に控えている二人の隊士は、そんな土方の様子を不審がりながら眺めている。