妾宅は、夜になると酷く静かだった。
表通りから一本入った路地にあり、外の喧騒は障子一枚で切り離されている。
灯明の火が低く揺れ、畳には柔らかな影が落ちていた。
近藤勇は、伊東甲子太郎と向かい合って座っている。
卓の上には、酒と簡素な肴。豪奢とは程遠いが、もてなす側の誠意は十分に伝わる。
「……変わらないな、伊東君」
近藤がそう言いいながら、伊東の前に盃を差し出した。
酒が入った盃を手にした伊東は、感情のない表情を浮かべたまま盃の中に視線を落とす。
「昔から、こういう場所が似合わない」
「それは買い被りですわ」
伊東は盃を受け、静かに口を付ける。
酒量は控えめだ。酔うための席ではないことを互いに分かっている。
少しの沈黙が二人の間に流れた。
外では、遠くを人が通る足音がする。些細な物音にすら過剰に反応してしまうほど、辺りには緊張が張り詰めていた。
「御陵衛士の件だが……」
近藤が言いかけて、言葉を切る。盃へと落ちた視線の揺れ動く様が、酒の表面に反射した。
伊東は何も促さない。ただ、言葉の続きを待つだけだ。
「……君が、そう選んだのなら」
盃から視線を上げた近藤は、伊東へと困ったように眉を下げて笑った。
「俺には、止める資格も、責める資格もない」
その言葉に、伊東は僅かに目を細めた。表情には、皮肉とも、安堵とも取れる影がある。
ゆっくりと噛み締めるように近藤の言葉を反芻して、伊東は目を伏せた。
「相変わらず、お優しい」
「優しいつもりはない。ただ……」
近藤は盃を置き、畳に視線を落とす。
伏し目がちになった瞳には、微かな慈愛と憐憫が滲んだ。
かつては仲間であった者同士、そして今も心の何処かでは憎みきれない者同士。
相対しない互いの正義が、確かにこの時ぶつかった。
「剣を交えた仲だ。情が無い方が、おかしい」
伊東は、その言葉を黙って受け取った。
一瞬、脳裏を過るのは、新撰組にいたの頃の記憶。議論し、衝突し、それでも同じ未来を見ていた日々。
(……もう、戻る気はないわ)
伊東は盃を置き、深く息を吐いた。
「局長。今夜は……その言葉だけで十分です」
それ以上、語ることはない。互いに踏み込めば、引き返せなくなる。
近藤は伊東を引き止めなかった。
立ち上がる背に、ただ一言だけ告げる。
「夜道だ。気をつけて」
伊東は振り返り、穏やかに微笑んだ。その反面、近藤は目を逸らして苦々しく奥歯を噛み締めている。
これが最後に見る新撰組局長の顔だなんて、伊東は信じたくはなかった。
「ええ。では——……これで」
妾宅の障子が静かに閉まる。その音を、近藤は妙に重く感じた。
伊東の足音が遠ざかる。
夜気がふっと室内に入り込み、灯明の火が揺れた。
(……これでいい)
情を断ち切るための、最後の挨拶。
そう自分に言い聞かせ、妾宅を出ると足を止めることなく油小路へ向かう。
この先に待つものを、分かっていながら。
表通りから一本入った路地にあり、外の喧騒は障子一枚で切り離されている。
灯明の火が低く揺れ、畳には柔らかな影が落ちていた。
近藤勇は、伊東甲子太郎と向かい合って座っている。
卓の上には、酒と簡素な肴。豪奢とは程遠いが、もてなす側の誠意は十分に伝わる。
「……変わらないな、伊東君」
近藤がそう言いいながら、伊東の前に盃を差し出した。
酒が入った盃を手にした伊東は、感情のない表情を浮かべたまま盃の中に視線を落とす。
「昔から、こういう場所が似合わない」
「それは買い被りですわ」
伊東は盃を受け、静かに口を付ける。
酒量は控えめだ。酔うための席ではないことを互いに分かっている。
少しの沈黙が二人の間に流れた。
外では、遠くを人が通る足音がする。些細な物音にすら過剰に反応してしまうほど、辺りには緊張が張り詰めていた。
「御陵衛士の件だが……」
近藤が言いかけて、言葉を切る。盃へと落ちた視線の揺れ動く様が、酒の表面に反射した。
伊東は何も促さない。ただ、言葉の続きを待つだけだ。
「……君が、そう選んだのなら」
盃から視線を上げた近藤は、伊東へと困ったように眉を下げて笑った。
「俺には、止める資格も、責める資格もない」
その言葉に、伊東は僅かに目を細めた。表情には、皮肉とも、安堵とも取れる影がある。
ゆっくりと噛み締めるように近藤の言葉を反芻して、伊東は目を伏せた。
「相変わらず、お優しい」
「優しいつもりはない。ただ……」
近藤は盃を置き、畳に視線を落とす。
伏し目がちになった瞳には、微かな慈愛と憐憫が滲んだ。
かつては仲間であった者同士、そして今も心の何処かでは憎みきれない者同士。
相対しない互いの正義が、確かにこの時ぶつかった。
「剣を交えた仲だ。情が無い方が、おかしい」
伊東は、その言葉を黙って受け取った。
一瞬、脳裏を過るのは、新撰組にいたの頃の記憶。議論し、衝突し、それでも同じ未来を見ていた日々。
(……もう、戻る気はないわ)
伊東は盃を置き、深く息を吐いた。
「局長。今夜は……その言葉だけで十分です」
それ以上、語ることはない。互いに踏み込めば、引き返せなくなる。
近藤は伊東を引き止めなかった。
立ち上がる背に、ただ一言だけ告げる。
「夜道だ。気をつけて」
伊東は振り返り、穏やかに微笑んだ。その反面、近藤は目を逸らして苦々しく奥歯を噛み締めている。
これが最後に見る新撰組局長の顔だなんて、伊東は信じたくはなかった。
「ええ。では——……これで」
妾宅の障子が静かに閉まる。その音を、近藤は妙に重く感じた。
伊東の足音が遠ざかる。
夜気がふっと室内に入り込み、灯明の火が揺れた。
(……これでいい)
情を断ち切るための、最後の挨拶。
そう自分に言い聞かせ、妾宅を出ると足を止めることなく油小路へ向かう。
この先に待つものを、分かっていながら。



