その夜、雪は屯所の一室に残るよう言い渡されていた。
理由は告げられていない。ただ、「外へ出るな」と、それだけだった。
障子越しに灯りが揺れている。いつもと同じはずの光なのに、どこか落ち着かない。胸の奥に、小さな石を落とされたような重みがあった。
「……総司君?」
名を呼んでも返事はない。
つい先刻まで、確かにそこにいたはずなのに。
立ち上がって廊下に出ると、夜の空気がひやりと肌を撫でた。静まり返った屯所は、昼間の賑やかさが嘘のようで、足音さえ遠慮がちになる。
その時、廊下の先で、ふと人影が動いた。
「……あ」
思わず息を呑む。
月明かりの下、柱の影から現れたのは沖田だった。
羽織は着ているが、いつもより身軽だ。帯の位置、刀の差し方、ほんの僅かな違いが、雪には分かってしまった。
「こんな時間にどうしたの?」
声をかけると、沖田は驚いたように目を瞬かせ、それから困ったように笑った。
「いやぁ、ちょっと夜風に当たろうかなって」
「嘘」
即座に返すと、沖田は「即答だね」と苦笑する。
「雪は、今日は部屋で大人しくしてなさいって言われてるでしょ」
「それは総司君も同じだよ」
視線が、自然と彼の刀へと落ちる。
沖田はそれに気づいて、わざとらしく肩を竦めた。
「勘が良すぎるのも困りものだなぁ」
冗談めいた口調。いつもと同じ軽さ。
けれど、その奥にあるものを、雪は見逃せなかった。
「……何処に行くの?」
問いというよりも確認だった。
沖田は一瞬だけ黙り込み、それから、いつもの笑顔のまま頷いた。
「ちょっとね。すぐ戻るよ」
その「すぐ」が、どれほど曖昧な言葉か二人とも分かっていた。
「私も行く」
「駄目」
即答だった。
声音は柔らかいのに、拒絶だけははっきりしている。
「雪は、ここにいなきゃ」
「どうして」
「どうして、か」
沖田は視線を逸らし、夜の庭を見やった。
「これは、雪が背負う話じゃない」
それ以上は言わなかった。言わないこと自体が答えだった。
雪は唇を噛み締める。
止めたい気持ちと、止められないと理解している自分が、胸の中でせめぎ合っていた。
「……必ず、戻ってきて」
ようやくそれだけを口にすると、沖田は少しだけ目を細めた。
「うん。約束」
その約束が、どれほど脆いものか分かっていながら、それでも言葉にしてくれたことが胸に沁みる。
沖田は軽く手を振り、闇の中へと溶けていく。
足音は、すぐに聞こえなくなった。
雪はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
胸の奥で、不吉な予感が膨らんでいく。
(……平助君)
何故か、その名が浮かぶ。
皆、同じ夜の下で、それぞれの場所へ向かっている。
自分だけが、取り残されているような感覚。
部屋へ戻ると、灯明の火が揺れた。
影が壁に伸び、歪み、また縮む。
雪は膝を抱え、じっと耳を澄ませる。
遠くで、何かが始まろうとしている気配だけが、確かにあった。
この夜が、もう戻れない境目になることを、まだ言葉には出来ないまま。
理由は告げられていない。ただ、「外へ出るな」と、それだけだった。
障子越しに灯りが揺れている。いつもと同じはずの光なのに、どこか落ち着かない。胸の奥に、小さな石を落とされたような重みがあった。
「……総司君?」
名を呼んでも返事はない。
つい先刻まで、確かにそこにいたはずなのに。
立ち上がって廊下に出ると、夜の空気がひやりと肌を撫でた。静まり返った屯所は、昼間の賑やかさが嘘のようで、足音さえ遠慮がちになる。
その時、廊下の先で、ふと人影が動いた。
「……あ」
思わず息を呑む。
月明かりの下、柱の影から現れたのは沖田だった。
羽織は着ているが、いつもより身軽だ。帯の位置、刀の差し方、ほんの僅かな違いが、雪には分かってしまった。
「こんな時間にどうしたの?」
声をかけると、沖田は驚いたように目を瞬かせ、それから困ったように笑った。
「いやぁ、ちょっと夜風に当たろうかなって」
「嘘」
即座に返すと、沖田は「即答だね」と苦笑する。
「雪は、今日は部屋で大人しくしてなさいって言われてるでしょ」
「それは総司君も同じだよ」
視線が、自然と彼の刀へと落ちる。
沖田はそれに気づいて、わざとらしく肩を竦めた。
「勘が良すぎるのも困りものだなぁ」
冗談めいた口調。いつもと同じ軽さ。
けれど、その奥にあるものを、雪は見逃せなかった。
「……何処に行くの?」
問いというよりも確認だった。
沖田は一瞬だけ黙り込み、それから、いつもの笑顔のまま頷いた。
「ちょっとね。すぐ戻るよ」
その「すぐ」が、どれほど曖昧な言葉か二人とも分かっていた。
「私も行く」
「駄目」
即答だった。
声音は柔らかいのに、拒絶だけははっきりしている。
「雪は、ここにいなきゃ」
「どうして」
「どうして、か」
沖田は視線を逸らし、夜の庭を見やった。
「これは、雪が背負う話じゃない」
それ以上は言わなかった。言わないこと自体が答えだった。
雪は唇を噛み締める。
止めたい気持ちと、止められないと理解している自分が、胸の中でせめぎ合っていた。
「……必ず、戻ってきて」
ようやくそれだけを口にすると、沖田は少しだけ目を細めた。
「うん。約束」
その約束が、どれほど脆いものか分かっていながら、それでも言葉にしてくれたことが胸に沁みる。
沖田は軽く手を振り、闇の中へと溶けていく。
足音は、すぐに聞こえなくなった。
雪はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
胸の奥で、不吉な予感が膨らんでいく。
(……平助君)
何故か、その名が浮かぶ。
皆、同じ夜の下で、それぞれの場所へ向かっている。
自分だけが、取り残されているような感覚。
部屋へ戻ると、灯明の火が揺れた。
影が壁に伸び、歪み、また縮む。
雪は膝を抱え、じっと耳を澄ませる。
遠くで、何かが始まろうとしている気配だけが、確かにあった。
この夜が、もう戻れない境目になることを、まだ言葉には出来ないまま。



