想いと共に花と散る

 廊下を歩いていると、無意識のうちに視線が壁際へと滑っていた。
 柱の影。人の気配が溜まりやすい場所。かつてそこにあったはずの、沈黙の輪郭を探すように。
 柱に背を預け、腕を組んで立つ男。
 周囲を睨むでもなく、見張るでもなく、ただ視線だけで場を支配していた姿。
 気配を消し、存在を薄め、それでも確かにそこにいると分かる不思議な佇まい。
 斎藤一。気づけば、その名を胸の内で呼んでいた。
 彼は何も言わずに、御陵衛士へ入った。
 理由を説明することも、弁解することもなく、ただ選び、去った。
 それが彼の流儀であり、彼なりの誠実さだったのだと頭では理解している。
 誰もが分かっている。
 それが裏切りではないことも、逃げではないことも。
 けれど、理解と感情は、やはり別だった。

「……斎藤さん」

 思わず名を呼んでみる。返事があるはずもないと分かっているのに、声にしてしまった自分に雪は小さく息を吐いた。
 どれも以前と変わらない。屯所の日常は、何一つ欠けていないように見える。
 それでも、確かに何かが足りなかった。
 影が、ない。あの場所にあったはずの沈黙が、空白になっている。
 雪はふと、廊下の先の庭へと視線を向けた。見上げた空は、雲一つない穏やかな青で、あまりにも澄んでいる。

(皆、同じ空の下にいるはずなのに)

 そう思った瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。
 理由の分からない痛みではない。分かっているからこそ、余計に深く刺さる。
 もう、同じ場所にはいない。同じ食卓を囲むことも、同じ時間を重ねることもない。
 それは拒絶でも、断絶でもない。
 ただ、それぞれが選んだ道だった。
 藤堂も、斎藤も。
 皆、自分の信じる場所へ歩いて行っただけだ。

「……寂しいな」

 ぽつりと零れた声は、廊下に吸い込まる。誰の耳にも届かないまま、風に溶けていった。
 言葉にしてしまったことで、胸の奥に沈めていたものが少しだけ形を持ってしまった気がする。
 雪は唇を結び、再び歩き出す。
 立ち止まるわけにはいかない。ここには、まだ自分の役目がある。
 屯所の日常は、今日も変わらず続いていく。
 笑い声も、足音も、剣戟の音も、途切れることはない。
 けれど雪の中では、確かに一つの時代が終わっていた。
 静かに、誰にも知られないまま。