想いと共に花と散る

 こんなにも厨に立つことが苦痛だったことはあっただろうか。

「……薄いなぁ………」

 小さな器に入れた味噌汁を飲み、ぽつりと呟く。
 単純に味噌の量が足りていないからか、それともこの静けさのせいか。
 いつもなら、朝餉の支度をしている頃には誰かしらが顔を出す。
 用もないのにふらりと現れて、味見をすると言っては勝手に箸を伸ばしたり、邪魔にならない程度に薪を足したり。
 ――……特に、藤堂はそうだった。

『雪ー、今日の味噌汁、何入ってんの?』
『平助君、それ昨日も聞いたでしょ』
『今日は違うかもしれねぇじゃん』

 そんな、どうでもいい遣り取り。くだらないようで、それが雪の楽しみでもあった。
 厨の何処を見ても彼の姿は見当たらない。いつからか、こんな時間が続くようになっていた。
 雪はふと、厨の入口へ視線を向けた。誰かの足音がする気配はない。暖簾も、微動だにしなかった。

(……来ない、か)

 胸の奥が、きゅっと音を立てて縮む。
 理由が分からないわけじゃない。分かっているからこそ、考えないようにしていた。
 藤堂は、もうここにはいない。あの夏祭りで互いに見せ合った笑顔は、今はもう何処にもないのだ。
 器を置き、雪は小さく息を吐いた。
 寂しい、と言葉にしてしまえば楽になるのかもしれない。でも、その言葉を口にした瞬間に何かが決定的になってしまう気がして、喉の奥で飲み込んだ。

「……なんだ? 今日は静かだな」

 聞き慣れた声に、雪ははっと顔を上げた。
 厨の入口から聞こえた声に誘われて視線を向ける。
 そこに立っていたのは、原田だった。腕を組み、いつもの調子で中を覗き込んでいる。

「あ、原田さん」
「おう。朝餉、もうすぐか?」

 そう言いながら、原田は一歩中に入ってくる。視線が自然と厨の奥を一巡し、それから、ほんの一瞬だけ止まった。

「……平助、今日は来てねぇのか」

 軽い口調だった。けれど、何気なく投げた言葉ではないと、雪には分かった。
 雪は、少しだけ間を置いてから答える。

「……はい」

 それ以上、言葉は続かなかった。雪は何を言えるわけでもなく、煮え滾る味噌汁が入った鍋に視線を落とす。
 原田も、何も聞かなかった。否、聞けなかったのだろう。

「そうか」

 短くそう言って、原田は頭の後ろを掻いた。
 気まずさを誤魔化すように、わざとらしく笑う。

「ま、あいつが来ねぇ日も、たまにはあるよな」

 たまには、なんて言葉が嘘だと二人とも分かっていた。
 それでも原田は、それ以上踏み込まない。雪の沈黙を沈黙のまま受け取るように。
 雪は鍋に向き直り、味噌を溶かす。湯気が立ち上り、視界が少し滲んだ。

「……原田さん」
「ん?」
「今日も、皆さんは普段通りですか」

 言い切ってから、自分で何を言っているのだと後悔する。
 案の定、雪ですら理解できない問を聞いた原田は一瞬、答えに詰まった。
 それから、いつもの調子に戻した声で言う。

「まあな。稽古もあるし、巡察もある。変わんねぇよ」

 ――……本当に?
 そう聞きたかったけれど、雪は聞かなかった。
 原田は湯気の向こうで、何処か遠くを見るような目をしていた。

「変わんねぇように、してんだ」

 その呟きは、雪に向けたものでも、自分に言い聞かせるものでもあったのだろう。
 厨に、再び包丁の音が戻る。
 けれどその音は、これまでよりも少しだけ重く、低く響いていた。