それから、数日が過ぎた。
九月の陽は相変わらず強く、朝から屯所の空気はむっとするほど重たい。
雪は洗い終えた手拭いを干しながら、ふと空を仰いだ。
何も、変わっていない。
朝はいつも通りに始まり、隊士達は変わらず騒がしく、笑い声も聞こえる。
刀の手入れをする音、廊下を駆ける足音、土方の怒声。日常は、確かにそこにあった。
(……何かが、足りない感じがする)
そう感じる理由を、雪はすぐに理解してしまう。
伊東の姿を、ここ数日見ていなかった。
会議に出ていない廊下ですれ違うこともない。藤堂と連れ立って歩く姿も、ぱたりと途絶えた。
「伊東さん、見かけないねえ」
昼餉の準備をしていると、ふいにそんな声が聞こえてくる。
振り返ってみれば、廊下で立ち話をする沖田と藤堂の姿が見えた。
答える藤堂の声は、何処か歯切れが悪い。
「ああ……忙しいんじゃねえの」
「参謀だしね」
伊東の姿が見当たらなくなった理由はある。
けれど、誰もそれ以上踏み込まない。
踏み込まない、というよりも触れてはいけないと、無意識に分かっているようだった。
(……あの時の話、やっぱり何かあるのかな)
雪は、あの日の伊東の声を思い出す。
『私は、ここを離れます』
確かにそう言った。
だが、それがいつなのか、どういう形なのか何も語られなかった。
それでも、胸の奥に引っ掛かる。
離れる。ただ、距離を置くのではない。あの言い方は——……決別に近かった。
❁
夕刻、廊下を歩いていると藤堂の姿が目に入った。
いつもより口数が少なく、視線が落ち着かない。
何かを考え込んでいるようで、人と目が合うと慌てて逸らす。
「平助君」
声を掛けると、藤堂はびくりと肩を揺らして振り返った。
「……あ、雪」
「お疲れ様」
いつもの笑顔を作ろうとしているのが、痛いほど分かる。
だが、その笑みはすぐに崩れた。
雪とは目を合わせようとせず、虚ろな目を斜め下に落としている。
「……伊東さん、何か言ってた?」
雪は、慎重に言葉を選ぶ。普段活発な藤堂が沈んだ様子を見せるなど、伊東が関係しているに違いないと雪は考えたからだ。
その心配を知ってか知らずか、藤堂は一瞬黙り込み、やがて苦笑する。
「……いや。まだ、何も」
「まだ?」
含みのある言い方が引っ掛かり、雪は思わず聞き返した。
何も言わずに目を逸らす沈黙が肯定になる。
藤堂は廊下の先をぼんやりと見つめたまま、小さく呟いた。
「俺さ、あの人に助けられたんだ。だから分かる。あの人は、逃げるために動く人じゃない」
その言葉に、雪の胸が静かに締めつけられる。
伊東は、もう決めているのだ。
誰にも言わず、誰にも縋らず、自分の足で未来へと進むことを。
「……雪」
数歩進んだ先で、藤堂はふと振り返った。
視線は下に落としたまま、小さく独り言のように問う。
「もしさ。もし、伊東先生がここを離れることになったら——……雪は、どう思う?」
その問の真意は分からなかった。けれど、藤堂が何かを雪に求めている。それだけは分かった。
だから、その問いに対する答えはすぐに出る。
「……寂しいって思うかな」
「……うん」
「でも、伊東さんが選んだなら……きっと、それが一番正しい形なんじゃないかな」
藤堂は目を見開き、やがてゆっくりと息を吐いた。
「……そうだな」
それは何処か、覚悟を決めたような声だった。
背を向けた藤堂は、二度と振り返ること無くその場を去っていく。そんな彼の背中を眺める雪の脳裏に、浮かんだ光景があった。
伊東の微笑み。あの時の、静かな声。それらが否応にもなく思い返される。
『私は、未来を選びたいのです』
それは、誰かに褒められるための言葉ではない。
ただ、自分を貫くための孤独な選択。
何が起きるのかは分からない。けれど、流れ始めたものは止まらない。
新撰組は、まだ一つの形を保っている。
だが、その内側では、確かに別れの時が近づいていた。静かに、誰にも気づかれないまま。
九月の陽は相変わらず強く、朝から屯所の空気はむっとするほど重たい。
雪は洗い終えた手拭いを干しながら、ふと空を仰いだ。
何も、変わっていない。
朝はいつも通りに始まり、隊士達は変わらず騒がしく、笑い声も聞こえる。
刀の手入れをする音、廊下を駆ける足音、土方の怒声。日常は、確かにそこにあった。
(……何かが、足りない感じがする)
そう感じる理由を、雪はすぐに理解してしまう。
伊東の姿を、ここ数日見ていなかった。
会議に出ていない廊下ですれ違うこともない。藤堂と連れ立って歩く姿も、ぱたりと途絶えた。
「伊東さん、見かけないねえ」
昼餉の準備をしていると、ふいにそんな声が聞こえてくる。
振り返ってみれば、廊下で立ち話をする沖田と藤堂の姿が見えた。
答える藤堂の声は、何処か歯切れが悪い。
「ああ……忙しいんじゃねえの」
「参謀だしね」
伊東の姿が見当たらなくなった理由はある。
けれど、誰もそれ以上踏み込まない。
踏み込まない、というよりも触れてはいけないと、無意識に分かっているようだった。
(……あの時の話、やっぱり何かあるのかな)
雪は、あの日の伊東の声を思い出す。
『私は、ここを離れます』
確かにそう言った。
だが、それがいつなのか、どういう形なのか何も語られなかった。
それでも、胸の奥に引っ掛かる。
離れる。ただ、距離を置くのではない。あの言い方は——……決別に近かった。
❁
夕刻、廊下を歩いていると藤堂の姿が目に入った。
いつもより口数が少なく、視線が落ち着かない。
何かを考え込んでいるようで、人と目が合うと慌てて逸らす。
「平助君」
声を掛けると、藤堂はびくりと肩を揺らして振り返った。
「……あ、雪」
「お疲れ様」
いつもの笑顔を作ろうとしているのが、痛いほど分かる。
だが、その笑みはすぐに崩れた。
雪とは目を合わせようとせず、虚ろな目を斜め下に落としている。
「……伊東さん、何か言ってた?」
雪は、慎重に言葉を選ぶ。普段活発な藤堂が沈んだ様子を見せるなど、伊東が関係しているに違いないと雪は考えたからだ。
その心配を知ってか知らずか、藤堂は一瞬黙り込み、やがて苦笑する。
「……いや。まだ、何も」
「まだ?」
含みのある言い方が引っ掛かり、雪は思わず聞き返した。
何も言わずに目を逸らす沈黙が肯定になる。
藤堂は廊下の先をぼんやりと見つめたまま、小さく呟いた。
「俺さ、あの人に助けられたんだ。だから分かる。あの人は、逃げるために動く人じゃない」
その言葉に、雪の胸が静かに締めつけられる。
伊東は、もう決めているのだ。
誰にも言わず、誰にも縋らず、自分の足で未来へと進むことを。
「……雪」
数歩進んだ先で、藤堂はふと振り返った。
視線は下に落としたまま、小さく独り言のように問う。
「もしさ。もし、伊東先生がここを離れることになったら——……雪は、どう思う?」
その問の真意は分からなかった。けれど、藤堂が何かを雪に求めている。それだけは分かった。
だから、その問いに対する答えはすぐに出る。
「……寂しいって思うかな」
「……うん」
「でも、伊東さんが選んだなら……きっと、それが一番正しい形なんじゃないかな」
藤堂は目を見開き、やがてゆっくりと息を吐いた。
「……そうだな」
それは何処か、覚悟を決めたような声だった。
背を向けた藤堂は、二度と振り返ること無くその場を去っていく。そんな彼の背中を眺める雪の脳裏に、浮かんだ光景があった。
伊東の微笑み。あの時の、静かな声。それらが否応にもなく思い返される。
『私は、未来を選びたいのです』
それは、誰かに褒められるための言葉ではない。
ただ、自分を貫くための孤独な選択。
何が起きるのかは分からない。けれど、流れ始めたものは止まらない。
新撰組は、まだ一つの形を保っている。
だが、その内側では、確かに別れの時が近づいていた。静かに、誰にも気づかれないまま。



