伊東は、ほんの一瞬だけ目を見開き、それから穏やかに笑った。
「それは……私が言う台詞よ」
夕風が吹き抜け、衣の裾が揺れた。
その向こうで、伊東の背中が遠ざかっていく。
理由は分からない。何も聞かされていない。それでも藤堂は、確信していた。
(――……この人、もう戻ってこねぇんだな)
胸の奥に残ったのは、言葉にできない不安と、守れなかった約束の影だけだった。
伊東の足音が、廊下の奥で止まる。
そのまま行ってしまうと思った藤堂は、無意識に息を詰めていたことに気づいた。
「藤堂君」
名を呼ばれて、はっと顔を上げる。
声が聞こえた方向に顔を向ければ、扇子で口元を覆った伊東が振り返っていた。
「はい」
「一つ、頼みがあるの」
そう言う伊東の表情は、先程よりも柔らかい。
それが返って、藤堂の胸に刺さった。どんな刀よりも鋭い刃となって。
「もし……もしよ」
「……?」
「この先、新撰組の中で納得できないことが起きたとしても」
伊東は言葉を選ぶように、一拍置いた。
扇子の裏にあるはずの笑みはない。そこにあるのは、ただ希う一人の弱い人間のそれであった。
藤堂を見る目に確かな慈愛があったのだから。
「すぐに刀を抜かないでちょうだいね」
「……俺、そんな短気じゃないつもりですけど」
馬鹿にされているわけではないと分かっている。だからこそ、少し巫山戯てみた。
夏祭りの時に雪から聞かされた自分自身を客観的に見た姿形。この時だけは、悪用させてもらうことにした。
軽く笑ってみせると、伊東も小さく微笑んだ。
「ええ。だから、貴方に頼むの」
「なんで、俺なんですか」
新撰組には、伊東が言うにふさわしい者が他にもいるだろう。
頭のキレる者も、剣の強い者も。
「藤堂君は、人を憎みきれない」
「……それ、弱点ですよ」
「いいえ。組織にとって、一番必要なもの」
そう言い切られて、藤堂は言葉を失う。
何と返せばいいのか分からず、俯いて黙り込んだ。
そんな藤堂を横目で見た伊東は、ほんの少し微笑んで続ける。
「憎しみは、連鎖する。けれど、迷いは……時に人を救うわ」
伊東の目は、まっすぐだった。
誰かを見ているようで、誰も見ていない目。
「俺、ちゃんと出来ますかね」
「出来るわよ。貴方は、自分を信じていない」
「……だって俺、失敗ばっかで」
「だからこそよ」
伊東は一歩だけ近づき、声を落とす。
囁くような、親が子供に言い聞かせるような言い方だ。到底、その内容は子供に聞かせるものではないが。
「失敗を悔やむ者は、同じ過ちを繰り返さない」
その距離が、やけに近く感じられた。まるで、何かを託されているみたいで。
「伊東先生」
「はい」
「また、ちゃんと話しましょうよ」
それは、約束のつもりだった。
伊東は少しだけ目を伏せ、それから穏やかに微笑む。
「ええ。機会があれば」
また、その言い方だ。いつも、その言葉を聞くとどうしても胸がざわつく。
「じゃあ、俺、原田さん探してきます」
「はい。お気をつけて」
藤堂が踵を返すと、背中に視線を感じた。
振り返りたかったが、何故か出来なかった。
数歩進んでから、足を止める。
(……今、引き止めたら)
何かが変わる気がした。でも、それが良い方向かどうか、分からなかった。
結局、藤堂は振り返られないまま本堂の中へと入っていった。
「それは……私が言う台詞よ」
夕風が吹き抜け、衣の裾が揺れた。
その向こうで、伊東の背中が遠ざかっていく。
理由は分からない。何も聞かされていない。それでも藤堂は、確信していた。
(――……この人、もう戻ってこねぇんだな)
胸の奥に残ったのは、言葉にできない不安と、守れなかった約束の影だけだった。
伊東の足音が、廊下の奥で止まる。
そのまま行ってしまうと思った藤堂は、無意識に息を詰めていたことに気づいた。
「藤堂君」
名を呼ばれて、はっと顔を上げる。
声が聞こえた方向に顔を向ければ、扇子で口元を覆った伊東が振り返っていた。
「はい」
「一つ、頼みがあるの」
そう言う伊東の表情は、先程よりも柔らかい。
それが返って、藤堂の胸に刺さった。どんな刀よりも鋭い刃となって。
「もし……もしよ」
「……?」
「この先、新撰組の中で納得できないことが起きたとしても」
伊東は言葉を選ぶように、一拍置いた。
扇子の裏にあるはずの笑みはない。そこにあるのは、ただ希う一人の弱い人間のそれであった。
藤堂を見る目に確かな慈愛があったのだから。
「すぐに刀を抜かないでちょうだいね」
「……俺、そんな短気じゃないつもりですけど」
馬鹿にされているわけではないと分かっている。だからこそ、少し巫山戯てみた。
夏祭りの時に雪から聞かされた自分自身を客観的に見た姿形。この時だけは、悪用させてもらうことにした。
軽く笑ってみせると、伊東も小さく微笑んだ。
「ええ。だから、貴方に頼むの」
「なんで、俺なんですか」
新撰組には、伊東が言うにふさわしい者が他にもいるだろう。
頭のキレる者も、剣の強い者も。
「藤堂君は、人を憎みきれない」
「……それ、弱点ですよ」
「いいえ。組織にとって、一番必要なもの」
そう言い切られて、藤堂は言葉を失う。
何と返せばいいのか分からず、俯いて黙り込んだ。
そんな藤堂を横目で見た伊東は、ほんの少し微笑んで続ける。
「憎しみは、連鎖する。けれど、迷いは……時に人を救うわ」
伊東の目は、まっすぐだった。
誰かを見ているようで、誰も見ていない目。
「俺、ちゃんと出来ますかね」
「出来るわよ。貴方は、自分を信じていない」
「……だって俺、失敗ばっかで」
「だからこそよ」
伊東は一歩だけ近づき、声を落とす。
囁くような、親が子供に言い聞かせるような言い方だ。到底、その内容は子供に聞かせるものではないが。
「失敗を悔やむ者は、同じ過ちを繰り返さない」
その距離が、やけに近く感じられた。まるで、何かを託されているみたいで。
「伊東先生」
「はい」
「また、ちゃんと話しましょうよ」
それは、約束のつもりだった。
伊東は少しだけ目を伏せ、それから穏やかに微笑む。
「ええ。機会があれば」
また、その言い方だ。いつも、その言葉を聞くとどうしても胸がざわつく。
「じゃあ、俺、原田さん探してきます」
「はい。お気をつけて」
藤堂が踵を返すと、背中に視線を感じた。
振り返りたかったが、何故か出来なかった。
数歩進んでから、足を止める。
(……今、引き止めたら)
何かが変わる気がした。でも、それが良い方向かどうか、分からなかった。
結局、藤堂は振り返られないまま本堂の中へと入っていった。



