想いと共に花と散る

 掌が霞んで見えた、気がした。
 瞬きをすると何事もなく自分の手がある。二度三度と閉じたり開いたりしてみるが、何ら変わりはない。

「土方君から聞いてね。君の様子がおかしいと」
「……ち、ちが………何かの間違いです」

 そう言い切ろうとしたはずなのに、声が途中で震えた。
 否定する言葉ほど、現実を裏切れない。
 松本はすぐには答えなかった。
 雪の顔、手元、呼吸の間合いを、何度も確かめるように見ている。

「……結城君」

 その呼び方には、医師としての距離があった。

「正直に言おう」
「……はい」
「私にも、分からない」

 松本は、はっきりとそう言った。
 雪は思わず目を瞬かせる。
 医師が「分からない」と言うことの重さを、ここに来て初めて実感した。

「怪我でもない。病でもない。脈も呼吸も、体温も正常。それなのに……」

 松本は、指先で自分の眉間を押さえた。
 困惑と苛立ちを隠そうともせず、珍しく深く息を吐く。

「君は、“いる”はずなのに“安定していない”」

 松本は言葉を選びながら、慎重に続けた。

「土方君からね」
「……はい」
「『近頃、様子がおかしい』とだけ聞いた。疲れか、心労か、あるいは気付かぬ内の持病かと思ったが……」

 途中で言葉を途切れさせ、松本は力なく首を横に振った。
 畳の上に視線を落とし、目を伏せる様子は心底やるせなさに縛られているようで。
 雪はそんな松本から目を逸らせなかった。

「どれも、当てはまらない」

 医師として、これほどまで厄介なことはない。どんな知識を持ってしても、何が“おかしい”のかが分からないのだ。
 そして、原因が分からなければ治療のしようがない。

「視界が揺れることは?」
「……あります」
「音が、少し遅れて聞こえることは?」
「……」
「記憶が、抜け落ちる感覚は」

 雪は、ゆっくりと頷いた。
 否定できなかったのだ。松本に聞かれた事全てが身に覚えがあるから。

「……君は、少しずつ“軽くなっている”ように見える」

 それは診断ではなく、感覚に近い言葉だった。

「軽い……?」
「触れているはずなのに、遠い。ここにいるのに、完全に留まっていない」

 松本は、自分の言葉に自分で首を傾げる。
 何を言っているのか自分でも分かっていないのだ。それでも、そう言うしか答えが見当たらない。

「医者が言うには、あまりに曖昧だな。だが、これ以上正確な言い方が見つからない」

 視線を滑らせた松本は、畳の上に置かれた雪の手を見る。
 一見、何の変哲もない小さな年相応の手にしか見えないはずなのに。

「結城君」
「はい」
「君は、無理をしているだろう」

 その声は、責める口調ではなく、確信に近い静けさを帯びていた。

「自分が削れていることに、気づかないふりをしている。それが一番、身体を壊す」

 松本は、しばらく黙り込んだ後、苦々しく笑った。

「すまない」
「え……?」
「医師として、情けないことを言う。私は、君を“治せない”。原因も、止め方も分からない。だが」

 松本は顔を上げ、はっきりと雪を見据える。
 その目には、確かな医師としての責任があった。

「悪化させないことはできるかもしれない。今は、静かに休みなさい。無理をしては駄目だ。“自分は平気だ”と思わないことを心がけなさい」

 それは処方箋の代わりの忠告だった。
 薬でも手術でも療養でも治らない。だから、いつ何処でどう変わってしまうのかも分からない危うさを抱えている。
 それが雪へと下された診断結果だった。

「君の身体は、今とても不安定だ。いつ、どう変わるか……私にも分からない。だからこそ、少しでも異変を感じたら、必ず誰かに言いなさい」
「……はい」

 雪は、そう答えることしかできなかった。