「では——……」
次は一体何を言われるのかと身構えた時、遠くの方が騒がしくなった。
伊東の言葉を遮るように、重い足音が近づいてくる。
「随分と、面白ぇ話してるじゃねぇか」
低く、荒れた声が二人の意識を奪い取った。
雪がはっと振り向くと、伊東の背後に土方が立っている。
腕を組み、鋭い視線で二人を睨め付けていた。
「副長……」
伊東が、何事もなかったかのように一礼する。
土方が立つ場所からは、雪と伊東の姿は薄暗くてよく見えない。だからこそ、伊東の瞳に微かな恐怖が滲んでいることに気付くのは、雪一人であった。
重々しい足取りで近づく土方の後ろから、近藤も姿を現す。
表情は穏やかだが、目は状況を正確に捉えていた。
「夜更けに、随分熱心だな。伊東先生」
近藤の声は柔らかい。だが、その場の空気を確かに締めていた。
土方は雪を一瞥し、舌打ちを一つ零す。
「お前、何やってんだ」
「……すみません」
反射的に頭を下げると、土方は短く息を吐いた。
「説教は後だ」
そう言ってから、伊東に視線を戻す。
自身の右腕的存在であるはずなのに、伊東を見る目には殺意にも似た鋭さがあった。
「参謀殿。うちの小姓に、随分ご熱心だな」
「いえ。ただの世間話ですわ」
伊東は、少しも動じない。扇子で口元を隠したまま、土方に見える目だけで笑みを浮かべる。
狐らしく、己を偽るのが上手い。
正体を偽る雪よりも、伊東の方が一枚上手であった。
「この子は、聡い。今後の新撰組にとって、興味深い存在になり得ましょう」
到底、これまでの会話でそんな考えに行き着くとは思えない。
雪も土方もその言葉が嘘であると気付いた。しかし、わざわざ言い返す気にはならなかった。
「……こいつの評価は、俺が決める」
伊東を見ていた目が細められ、やがて土方は目を逸らす。
主苦しい空気を読み取った近藤が、間に入るように一歩前に出た。
「今日はここまでだ、伊東君。皆、疲れているだろう」
伊東は一瞬だけ近藤を見つめ、やがて微笑んだ。
「そうですわね」
そう言って、雪に視線を戻す。
再び向けられた視線には、先程の怒りや嘲笑は感じられない。
「迷い続けるという選択も、確かにあります」
囁くような声を落とし、伊東は雪の耳元で囁いた。
「ただし——……それを許してくれる時代は、長くはない」
それだけを残し、伊東は闇の中へと溶けていく。
「……」
雪は、しばらく動けなかった。伊東の言葉を上手く飲み込めず、消化不良のように燻る。
そんな雪を見兼ねた近藤が、そっと声を掛けた。
「雪君。今日は、よく休め」
穏やかな微笑みを向け、優しく頭を撫でると近藤は背を向けた。
普段の雪であれば、喜ぶなり子供扱いするなと言い返したりするものだが、この時は何も言えなかった。
一連の様子を見ていた土方は、背を向けて吐き捨てるように言う。
「次からは、場所と相手を選べ。……ああいう男は、気づいた時にはもう手遅れだ」
その言葉を聞きながら、雪は思った。もう、始まってしまったのだと。
伊東甲子太郎という存在が、新撰組の中に、確かに根を下ろし始めたことを。



