合図は、思っていたよりもあっけなかった。
怒号でも鬨の声でもなく、ただ短い命令が一つ、低く落とされただけだった。
人が動く。一斉に、ではない。波紋のように、じわりと。
雪は息を詰めた。
視界の端で、刀が抜かれる音が重なる。金属が擦れる、乾いた音。
それだけで、喉の奥がひりついた。
(……始まった)
敵の姿をはっきりと見る前に、空気が変わった。
音が減る。言葉が消える。
代わりに、足音と呼吸だけがやけに大きく耳に残る。
前方で、隊士の一人が合図を送った。それを受けて、別の誰かが走る。
命令は声ではなく、動きで伝わっていく。
雪はその流れの外にいた。刀を持たない者として、邪魔にならぬよう後方に留められている。
それでも、戦は否応なく迫ってくる。
誰かが叫んだ。何を言ったのか、分からない。
次の瞬間、怒声と共に人影がぶつかり合う。
刃が交わる音は、想像していたよりも鈍かった。
乾いた衝撃音が、骨に響く。
血の匂いが、風に乗って流れてくる。
雪は思わず一歩下がった。
足が震える。
視線を逸らしたいのに、目が離れない。
(……人が、人を斬ってる)
当たり前の事実が、今になって現実として突き刺さる。
歴史の一行では済まされない。
これは、生きている人間同士の衝突だ。
倒れた者がいた。
助け起こそうとする者はいない。
踏み越えられ、置き去りにされ、次の動きへと流れていく。
しかし、迷っている暇はない。
伊東の言葉が、脳裏で反芻される。
正義を語れる剣。意味のある戦。
けれど、その意味を考える余裕は、何処にもなかった。
雪は歯を食いしばり、ただ何もできない自分に嫌気が差す
怖い。逃げたい。それでも、目の前の光景から目を逸らすことだけはしなかった。
逃げれば、自分はまた「何も見なかった側」に戻ってしまう。
それだけは、嫌だった。
戦は長くは続かない。膠着と緊張の末、やがて退く命が下る。
誰が勝ったのか、誰が負けたのか。その判断すら、雪には分からない。
ただ、残ったのは疲労と沈黙だった。
隊士達は口数を減らし、互いの無事を確かめ合う。
誰も笑わない。誰も声を荒げない。
生き残ったこと自体が、もう十分すぎる結果だった。
雪は、その光景を見つめながら、静かに理解した。
新選組は、もう戻れないと。
山南がいた頃の、新撰組には。あの頃には、問いを抱え、迷い、立ち止まる余地が、確かにあった。
けれど今は違う。
戦が答えであり、前進だけが許される。
その流れの中で、剣を持たない者。問いを手放せない者。何も持たない者は——……。
(……私、このままじゃ皆に置いていかれる)
雪は、ぎゅっと拳を握った。震えは、まだ止まらない。
それでも、この戦を見届けた以上、もう戻れなかった。
自分が何者で、何ができるのか。答えはまだ見えない。
けれど、「何も知らないままではいられない」という気持ちだけが、確かに胸に残っていた。
怒号でも鬨の声でもなく、ただ短い命令が一つ、低く落とされただけだった。
人が動く。一斉に、ではない。波紋のように、じわりと。
雪は息を詰めた。
視界の端で、刀が抜かれる音が重なる。金属が擦れる、乾いた音。
それだけで、喉の奥がひりついた。
(……始まった)
敵の姿をはっきりと見る前に、空気が変わった。
音が減る。言葉が消える。
代わりに、足音と呼吸だけがやけに大きく耳に残る。
前方で、隊士の一人が合図を送った。それを受けて、別の誰かが走る。
命令は声ではなく、動きで伝わっていく。
雪はその流れの外にいた。刀を持たない者として、邪魔にならぬよう後方に留められている。
それでも、戦は否応なく迫ってくる。
誰かが叫んだ。何を言ったのか、分からない。
次の瞬間、怒声と共に人影がぶつかり合う。
刃が交わる音は、想像していたよりも鈍かった。
乾いた衝撃音が、骨に響く。
血の匂いが、風に乗って流れてくる。
雪は思わず一歩下がった。
足が震える。
視線を逸らしたいのに、目が離れない。
(……人が、人を斬ってる)
当たり前の事実が、今になって現実として突き刺さる。
歴史の一行では済まされない。
これは、生きている人間同士の衝突だ。
倒れた者がいた。
助け起こそうとする者はいない。
踏み越えられ、置き去りにされ、次の動きへと流れていく。
しかし、迷っている暇はない。
伊東の言葉が、脳裏で反芻される。
正義を語れる剣。意味のある戦。
けれど、その意味を考える余裕は、何処にもなかった。
雪は歯を食いしばり、ただ何もできない自分に嫌気が差す
怖い。逃げたい。それでも、目の前の光景から目を逸らすことだけはしなかった。
逃げれば、自分はまた「何も見なかった側」に戻ってしまう。
それだけは、嫌だった。
戦は長くは続かない。膠着と緊張の末、やがて退く命が下る。
誰が勝ったのか、誰が負けたのか。その判断すら、雪には分からない。
ただ、残ったのは疲労と沈黙だった。
隊士達は口数を減らし、互いの無事を確かめ合う。
誰も笑わない。誰も声を荒げない。
生き残ったこと自体が、もう十分すぎる結果だった。
雪は、その光景を見つめながら、静かに理解した。
新選組は、もう戻れないと。
山南がいた頃の、新撰組には。あの頃には、問いを抱え、迷い、立ち止まる余地が、確かにあった。
けれど今は違う。
戦が答えであり、前進だけが許される。
その流れの中で、剣を持たない者。問いを手放せない者。何も持たない者は——……。
(……私、このままじゃ皆に置いていかれる)
雪は、ぎゅっと拳を握った。震えは、まだ止まらない。
それでも、この戦を見届けた以上、もう戻れなかった。
自分が何者で、何ができるのか。答えはまだ見えない。
けれど、「何も知らないままではいられない」という気持ちだけが、確かに胸に残っていた。



