雪の足音が、廊下の先で消える。
山南はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けずにいた。
帳場に残る灯りが、障子に揺れている。風が吹くたび、炎が僅かに傾いた。
(……最後まで、言えませんでしたね)
何をとは考えない。考えれば言葉になり、言葉になれば、もう戻れなくなる。
机に手を置き、ゆっくりと腰を下ろす。
先ほど閉じたばかりの名簿が、まだそこにあった。
開かずとも分かっている。あの余白。確かにあったはずの、名も役目も持たない存在。
(……雪君)
ようやく、胸の内で名前を呼ぶ。
声にはしなかった。声にした瞬間、現実になってしまうと知っているからである。
あの子は、今日もここにいた。笑って、周りを気遣って、当たり前のように呼吸をしていた。
それなのに、自分の目は何度も“焦点を外した”。
見てはいけないものを見るような恐怖。
触れれば壊れると知っているものに、手を伸ばしそうになる衝動。
(私は……何を守ろうとしている)
新撰組か。規律か。それとも、自分自身の正気か。
答えは分かっている。どれも守れていない。
組織は歪み、信念は言葉だけになり、そして、人が静かに削がれていく。
今日、雪と話した時。穏やかな会話の裏で、確かに感じた。
このままここにいれば、私はあの子を“見失う側”になる。
それは、耐え難かった。
山南は名簿を引き寄せ、今度は確かに開いた。
指先が、例の行で止まる。
やはり、何も書かれていない。だが、そこには確かに“温度”がある。
「……すまない」
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。
雪か。新撰組か。それとも、かつて信じていた自分か。
灯りを落とす。闇が帳場を満たし、輪郭が溶けていく。
その暗さの中で、山南はようやく理解した。
ここに留まる限り、壊れるのは雪ではない。壊してしまうのは、自分だ。
静かに立ち上がる。音を立てぬよう、呼吸を整える。
まだ、決断というほどの形はしていない。
けれど、心はもう戻れない場所に立っていた。
この夜を越えれば、自分はもう“ここ”の人間ではなくなる。
その予感だけが、冷たく、確かな重さを持って胸に沈んでいた。
「私は、君の強さに負けてしまった。……敵わなかったんです」
最初で最後の春に少女に言った自分自身の言葉が、巡り巡って今、胸の奥に深く傷をつけた。
山南はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けずにいた。
帳場に残る灯りが、障子に揺れている。風が吹くたび、炎が僅かに傾いた。
(……最後まで、言えませんでしたね)
何をとは考えない。考えれば言葉になり、言葉になれば、もう戻れなくなる。
机に手を置き、ゆっくりと腰を下ろす。
先ほど閉じたばかりの名簿が、まだそこにあった。
開かずとも分かっている。あの余白。確かにあったはずの、名も役目も持たない存在。
(……雪君)
ようやく、胸の内で名前を呼ぶ。
声にはしなかった。声にした瞬間、現実になってしまうと知っているからである。
あの子は、今日もここにいた。笑って、周りを気遣って、当たり前のように呼吸をしていた。
それなのに、自分の目は何度も“焦点を外した”。
見てはいけないものを見るような恐怖。
触れれば壊れると知っているものに、手を伸ばしそうになる衝動。
(私は……何を守ろうとしている)
新撰組か。規律か。それとも、自分自身の正気か。
答えは分かっている。どれも守れていない。
組織は歪み、信念は言葉だけになり、そして、人が静かに削がれていく。
今日、雪と話した時。穏やかな会話の裏で、確かに感じた。
このままここにいれば、私はあの子を“見失う側”になる。
それは、耐え難かった。
山南は名簿を引き寄せ、今度は確かに開いた。
指先が、例の行で止まる。
やはり、何も書かれていない。だが、そこには確かに“温度”がある。
「……すまない」
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。
雪か。新撰組か。それとも、かつて信じていた自分か。
灯りを落とす。闇が帳場を満たし、輪郭が溶けていく。
その暗さの中で、山南はようやく理解した。
ここに留まる限り、壊れるのは雪ではない。壊してしまうのは、自分だ。
静かに立ち上がる。音を立てぬよう、呼吸を整える。
まだ、決断というほどの形はしていない。
けれど、心はもう戻れない場所に立っていた。
この夜を越えれば、自分はもう“ここ”の人間ではなくなる。
その予感だけが、冷たく、確かな重さを持って胸に沈んでいた。
「私は、君の強さに負けてしまった。……敵わなかったんです」
最初で最後の春に少女に言った自分自身の言葉が、巡り巡って今、胸の奥に深く傷をつけた。



