夜更けの屯所は、音が少なかった。見回りの足音も、何処か遠い。
山南は灯明を一つだけ点し、机に向かっていた。
広げているのは、昼間と同じ名簿。閉じたはずのものを、気づけばまた開いている。
指で紙を押さえ、視線を落とす。
名は、ある。数も、揃っている。欠けている者はいない。――書面の上では。
(……それなのに、何故だろうか)
胸の奥が、ひどく冷える。
今日一日だけで何度も思い出した光景がある。
井戸端。声を掛けられた、はずの瞬間。
確かに誰かがそこに立っていた感覚だけが残り、認識だけがすり抜けた。
山南は、ぎゅっと目を閉じた。
(考えるな……分からなくなるだけだ。そうだろう、山南敬介)
そう命じても、思考は止まらない。
むしろ、部屋を満たす静けさがそれを加速させる。
突如目の前に現れ、土方の小姓として新撰組に存在し続けるまだ幼い子供。
いつからか、視界に入るたびに焦点が合わなくなった。
近づくほどに、何かを失うような不安が募る。
避けている。理由も分からぬまま、確かに自分はあの子を避けているのだ。
(私は……何から目を逸らしている。何から、逃げているのだ)
名簿を閉じる音が、夜にやけに大きく響いた。
組織の歪みなら、まだ向き合えた。規律の崩れも、信念の揺らぎも、言葉にできる。
新撰組の総長として、組織を立て直すために判断を下すことだってできる。
だが、これは違う。この問題は、総長という立場を使っても、一個人という立場を使っても解決できないのだ。
個人が、静かに削られていく。誰にも気づかれぬまま、確かに。
(もし、私だけが気づいているのなら)
そう考えると、背筋が粟立つ。
それは、守るべき立場の人間が抱えていい感覚ではない。気づいてしまった者は、いずれ“異物”になる。
山南は、ゆっくりと立ち上がった。
障子の向こうは闇。そこに屯所があり、人がいて、日常が続いているはずなのに。
(……ここに、私は居てはいけない)
その考えが浮かんだ瞬間、不思議と心は静まった。
答えを見つけてしまった者の、諦観にも似た静けさ。
誰かを守るためではない。
正義のためでもない。
ただ、これ以上“見えてはいけないもの”を見てしまう前に。
灯明を吹き消す。灯りが無くなり、闇がこの場に存在する全てを覆った。
山南は灯明を一つだけ点し、机に向かっていた。
広げているのは、昼間と同じ名簿。閉じたはずのものを、気づけばまた開いている。
指で紙を押さえ、視線を落とす。
名は、ある。数も、揃っている。欠けている者はいない。――書面の上では。
(……それなのに、何故だろうか)
胸の奥が、ひどく冷える。
今日一日だけで何度も思い出した光景がある。
井戸端。声を掛けられた、はずの瞬間。
確かに誰かがそこに立っていた感覚だけが残り、認識だけがすり抜けた。
山南は、ぎゅっと目を閉じた。
(考えるな……分からなくなるだけだ。そうだろう、山南敬介)
そう命じても、思考は止まらない。
むしろ、部屋を満たす静けさがそれを加速させる。
突如目の前に現れ、土方の小姓として新撰組に存在し続けるまだ幼い子供。
いつからか、視界に入るたびに焦点が合わなくなった。
近づくほどに、何かを失うような不安が募る。
避けている。理由も分からぬまま、確かに自分はあの子を避けているのだ。
(私は……何から目を逸らしている。何から、逃げているのだ)
名簿を閉じる音が、夜にやけに大きく響いた。
組織の歪みなら、まだ向き合えた。規律の崩れも、信念の揺らぎも、言葉にできる。
新撰組の総長として、組織を立て直すために判断を下すことだってできる。
だが、これは違う。この問題は、総長という立場を使っても、一個人という立場を使っても解決できないのだ。
個人が、静かに削られていく。誰にも気づかれぬまま、確かに。
(もし、私だけが気づいているのなら)
そう考えると、背筋が粟立つ。
それは、守るべき立場の人間が抱えていい感覚ではない。気づいてしまった者は、いずれ“異物”になる。
山南は、ゆっくりと立ち上がった。
障子の向こうは闇。そこに屯所があり、人がいて、日常が続いているはずなのに。
(……ここに、私は居てはいけない)
その考えが浮かんだ瞬間、不思議と心は静まった。
答えを見つけてしまった者の、諦観にも似た静けさ。
誰かを守るためではない。
正義のためでもない。
ただ、これ以上“見えてはいけないもの”を見てしまう前に。
灯明を吹き消す。灯りが無くなり、闇がこの場に存在する全てを覆った。



