想いと共に花と散る

 夕刻、山南は一人、自室に籠もって名簿を眺めていた。
 障子越しに射し込む西日の色が、畳の上を鈍く染めている。昼と夜の境目、屯所が最も静かになる時間帯だった。
 名簿を広げ、山南は何度目か分からないほど視線を往復させる。
 一行一行を確かめるように。名。年齢。所属。異動。欠員。それらを見落とさないように目を通していく。

(……おかしい)

 だが、その「おかしさ」は、何処にも書き留められていない。
 誤字もない。数字も合っている。帳簿としては、何一つ問題がないはずだった。
 それなのに、視線がある一点で必ず止まる。
 文字と文字の間。余白と呼ぶには、あまりにも曖昧な場所。
 そこに、何かがあった。
 確かにあったはずなのだ。
 名でもない。役目でもない。だが、人としての温度だけがそこに滲んでいた感覚。
 山南は無意識に指先でその行をなぞろうとして、止めた。
 触れてはいけないものに触れようとしている、そんな予感がしたからだ。

(……一体、誰なのだ?)

 問いかけは、喉の奥で消えた。
 答えが返ってくるはずがないと、分かっている。
 脳裏に浮かぶのは、穏やかな声。控えめな足音。朗らかな笑顔。そこにいるのが当たり前だった、気配。
 だが、それを言葉にしようとした途端、隅が見ずに滲むように輪郭が崩れる。
 山南は、そっと名簿を閉じた。紙の擦れる音が、やけに大きく響く。
 胸の奥に、嫌な予感が沈殿していった。
 これは、単なる記憶違いではない。老いでも、疲れでもない。
 組織が歪んでいる。規律が揺らぎ、信念が軋み始めている。
 それは、ずっと前から感じていたことだ。
 だが、この嫌な予感はそれとは別のもの。
 個人が、静かに削がれていく感覚。存在そのものが、音もなく薄れていく気配。
 今日の井戸端でのことを思い出す。
 確かに、視線は合った。声も、届いていたはずだった。
 それなのに、認識だけがすり抜けた。

(……あれを、どう説明すればいい。誰に、言うべきだ)

 あの小姓をここに置くことを判断した近藤に?
 それとも、主である土方に?
 否、誰にも話せない。
 もし口にすれば、それは「あり得ないこと」になる。
 あり得ないものを信じ始めた瞬間、自分自身が壊れてしまう。
 山南は、ぎゅっと目を閉じた。そして、深く息を吐く。

(……見間違いであってくれ)

 それは祈りだった。だが、同時に逃げでもあった。
 もし、あれが真実なら。
 もし、自分だけがそれに気づいてしまったのなら。
 この屯所で最初に“外れる”のは、自分なのだろう。
 夕闇が帳場に静かに降りてくる。
 名簿は、もう開かれなかった。
 山南は一人、その場に座したまま、戻らないはずの「何か」を、胸の奥で何度も探し続けていた。