井戸端には、誰もいなかった。
昼下がりの屯所は静かで、風に揺れる木の葉の音だけがやけに大きく聞こえる。
雪は洗濯桶を井戸の縁に置いたものの、すぐには袖を捲らなかった。
部屋に籠もっていると、胸の奥に溜まったざわめきがじわじわと膨らんでいく気がするのだ。それを冷ますために、ここまで来ただけだった。
井戸の中を覗き込む。水面に映った自分の顔は、何処か輪郭が曖昧に見えた。
(……気のせい、だよね)
自分に言い聞かせるように息を吐き、ようやく袖を捲る。
手を伸ばし、水に布を浸した。
その瞬間、冷たさが指先に伝わる、はずだった。
「……あれ?」
何だか感触が薄い。
確かに水に触れているのに、皮膚を撫でる感覚がひどく頼りない。
水を掬っても、指の間を抜け落ちていく感触だけが残り、重さが伴わない。
まるで、水がこちらを避けているみたいだ。
胸が、ひくりと鳴る。
慌てて、もう一度。今度は、意識して深く手を沈める。
ひやりとした冷たさが、はっきりと伝わった。
「……ちゃんと、冷たい」
安堵とも困惑ともつかない息が零れる。
やはり、気のせいなのだろう。寝坊や夢のせいで、感覚が過敏になっているだけだ。
そう思い直し、布を絞ろうとした、その時だった。
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる音が聞こえてくる。
乾いた板を踏む音に、雪は自然と顔を上げた。
「山南さん、これでよろしいですか」
「ああ……いや、少し待ってくれ」
聞き慣れた穏やかな声が聞こえて、胸の奥が僅かに緩む。
廊下の先に、山南が立っていた。手には書付の束を抱え、隊士と向かい合っている。
いつもと変わらぬ姿。いつもと変わらぬ表情。
雪は、思わず一歩踏み出した。
「山南さ――……」
声を掛けようとした、その瞬間、山南の視線がこちらを向いた。
否、向いた“はず”だった。
確かに、目は合った。ほんの一瞬、雪の存在を捉えたように見えた。
だが、次の瞬間、その視線が僅かに揺れる。
「……?」
山南は眉を寄せ、雪の背後へと視線を移した。まるで、そこにいるはずの誰かを探すように。
雪は、その光景が信じられず言葉を失ったまま立ち尽くす。
「……失礼」
短くそう言って、山南は再び隊士の方へ向き直った。
書付に視線を落とし、話を続ける。
そこに、雪の姿は含まれていなかった。
喉が、きゅっと締めつけられる。
(……今)
気づかなかった? それとも、見えていなかった?
声は出かけていた。視線も、確かに合った。
なのに、その先にあるはずの「雪」という存在だけがすり抜けていったようで。
指先が、じんと冷える。井戸の水よりも、深く。
雪は、何も言えないままその場に立ち尽くしていた。
昼下がりの屯所は静かで、風に揺れる木の葉の音だけがやけに大きく聞こえる。
雪は洗濯桶を井戸の縁に置いたものの、すぐには袖を捲らなかった。
部屋に籠もっていると、胸の奥に溜まったざわめきがじわじわと膨らんでいく気がするのだ。それを冷ますために、ここまで来ただけだった。
井戸の中を覗き込む。水面に映った自分の顔は、何処か輪郭が曖昧に見えた。
(……気のせい、だよね)
自分に言い聞かせるように息を吐き、ようやく袖を捲る。
手を伸ばし、水に布を浸した。
その瞬間、冷たさが指先に伝わる、はずだった。
「……あれ?」
何だか感触が薄い。
確かに水に触れているのに、皮膚を撫でる感覚がひどく頼りない。
水を掬っても、指の間を抜け落ちていく感触だけが残り、重さが伴わない。
まるで、水がこちらを避けているみたいだ。
胸が、ひくりと鳴る。
慌てて、もう一度。今度は、意識して深く手を沈める。
ひやりとした冷たさが、はっきりと伝わった。
「……ちゃんと、冷たい」
安堵とも困惑ともつかない息が零れる。
やはり、気のせいなのだろう。寝坊や夢のせいで、感覚が過敏になっているだけだ。
そう思い直し、布を絞ろうとした、その時だった。
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる音が聞こえてくる。
乾いた板を踏む音に、雪は自然と顔を上げた。
「山南さん、これでよろしいですか」
「ああ……いや、少し待ってくれ」
聞き慣れた穏やかな声が聞こえて、胸の奥が僅かに緩む。
廊下の先に、山南が立っていた。手には書付の束を抱え、隊士と向かい合っている。
いつもと変わらぬ姿。いつもと変わらぬ表情。
雪は、思わず一歩踏み出した。
「山南さ――……」
声を掛けようとした、その瞬間、山南の視線がこちらを向いた。
否、向いた“はず”だった。
確かに、目は合った。ほんの一瞬、雪の存在を捉えたように見えた。
だが、次の瞬間、その視線が僅かに揺れる。
「……?」
山南は眉を寄せ、雪の背後へと視線を移した。まるで、そこにいるはずの誰かを探すように。
雪は、その光景が信じられず言葉を失ったまま立ち尽くす。
「……失礼」
短くそう言って、山南は再び隊士の方へ向き直った。
書付に視線を落とし、話を続ける。
そこに、雪の姿は含まれていなかった。
喉が、きゅっと締めつけられる。
(……今)
気づかなかった? それとも、見えていなかった?
声は出かけていた。視線も、確かに合った。
なのに、その先にあるはずの「雪」という存在だけがすり抜けていったようで。
指先が、じんと冷える。井戸の水よりも、深く。
雪は、何も言えないままその場に立ち尽くしていた。



