想いと共に花と散る

 今日の朝の屯所は、珍しく静かだった。池田屋事件を越え、緊張が日常へと溶け込みつつある、そんな気配が漂っている。
 庭先では、誰かが素振りをしている音が規則正しく響き、厨からは味噌の匂いが流れてきた。
 雪は縁側に腰を下ろし、洗い上げた布を畳んでいた。
 指先に布の感触が伝わる。ちゃんと掴める。重さもある。

(……やっぱり、気のせいだよね)

 昨日から胸に引っ掛かっている違和感を、そうやって何度目を逸らしただろうか。
 その時、門の方から、荒い足音が聞こえてきた。
 それも一人や二人ではない。複数の足音が重なり、明らかに只事ではないことを暗示する速さだった。

「――……っ、開けろ!」

 低く張り詰めた声が響く。
 次の瞬間、門が勢いよく開かれる音が屯所全体に広がった。
 静かだった空気が、一気に張り裂ける。

「大変です!」

 血相を変えた隊士が駆け込んできた。息を切らし、額には汗が浮いている。

「長州勢が……御所へ向けて進軍を開始したとの報が入りました! 市中でも銃声が――……」

 その言葉を最後まで聞く前に、屯所がざわめき始めた。
 洗濯物を畳む手が止まり、稽古場の音が途切れる。雪は縁側から立ち上がり、声が聞こえる門の方へ視線を向けた。

「御所だと……?」
「本気で攻め込む気か」

 低い声が飛び交い、空気が一変する。
 池田屋での時とは違う。これは、京そのものが戦場になることを示していた。
 屯所の中から飛び出してきた近藤の号令が、迷いなく響き渡る。

「各隊、即刻支度! 命が下るまで持ち場を離れるな!」

 土方の声がそれに重なる。

「負傷者は後方へ。戦える者は装備を整えろ!」

 屯所が一斉に動き出す。
 刀の鞘が鳴り、草履が床を叩く音が重なっていく。
 雪は、その場に立ち尽くしていた。
 頭では分かっている。これは歴史だ。禁門の変、後にそう呼ばれる歴史の大きな分岐点でることを。
 けれど、胸の奥が嫌に冷える。
 池田屋の時とは違う、底の見えない不安が押し寄せてきた。

(……また、皆が……)

 言葉にできない思いが、喉の奥で詰まる。
 その時、視界の端で沖田がこちらを見た。
 一瞬だけ、確かめるような視線。すぐに逸らされ、何事もなかったかのように刀を手に取る。
 雪は、無意識に自分の手を握り締めた。布の感触が、指の間ですり抜ける。

(行っちゃ、いけない気がする……)

 理由は分からない。
 けれど、この戦が自分にとっても「境目」になる。そんな予感だけが、はっきりと胸に残っていた。
 屯所の外で、遠く銃声が響いた。
 京の朝が、戦の色に染まり始めていた合図である。