昼間の喧騒が嘘のように静まり返る屯所。
遠くで誰かの寝息が聞こえ、廊下を渡る風が障子を微かに鳴らす。
行灯の灯りの下、山南は机に向かっていた。机の上には、一冊の帳面。新撰組の名簿である。
筆を執り、名前を書き足していく。
池田屋以降、新撰組への入隊志願者は増えた。噂に惹かれ、覚悟も曖昧なまま門を叩く者も少なくない。それでも、名を書き連ねる手は止まらない。名を与え、隊士として迎え入れること。それが彼の役目だった。
一方で、線を引かれた名もある。
負傷により離脱した者、京を去った者、そして、もう戻らぬ者。
筆先が一瞬、止まった。
空白の行が、目に入ったからだ。
何度か頁を捲り、確認する。確かに、そこに在るはずの名前が何処にもない。
(……おかしい)
山南は眉を寄せ、名簿を最初から丁寧に辿った。
役目、配属、雑務の割り振り。どの頁にも、とある隊士の名は記されていない。
それなのに、厨に立つ姿を知っている。
洗濯場で笑う姿を目の前で見て、その声を聞いている。
隊士達が、当たり前のように世話になる様子をこの目で見てきた。
「……っ」
筆を持つ指に、力が籠もる。
書けばいい。書けばいいだけなのだ、その名前を。
そうすれば、ここに「在る」ことになる。
だが、筆先は紙に触れなかった。
触れた瞬間、紙が拒むような、妙な予感があった。
その時、廊下の向こうから微かな足音がする。ゆっくりとした、聞き慣れた足取り。
山南は顔を上げ、背後を振り返った。障子の向こうに、人の気配がある。
「……雪君なのですか」
名を呼ぶ声は、音にならなかった。
返事はない。足音は、何事もなかったかのように遠ざかっていく。
行灯の火が、ふっと揺れた。
山南は静かに息を吐き、再び机に向き直ると名簿を閉じる。
頁の間に挟まれた空白ごと、そっと。
閉じた表紙に、掌を置く。
そこには確かに重みがあるのに、何か大切なものだけが、抜け落ちてしまったような感覚が残った。
(……記さぬ方がいいこともありますよね)
それが誰のためなのか、自分のためなのか、答えはまだ出ない。
行灯の灯を落とし、山南は立ち上がった。
闇に沈む廊下の先で、屯所は静かに息をしている。
その静けさが、嵐の前触れであることを、彼だけが知っているような気がしてならなかった。
遠くで誰かの寝息が聞こえ、廊下を渡る風が障子を微かに鳴らす。
行灯の灯りの下、山南は机に向かっていた。机の上には、一冊の帳面。新撰組の名簿である。
筆を執り、名前を書き足していく。
池田屋以降、新撰組への入隊志願者は増えた。噂に惹かれ、覚悟も曖昧なまま門を叩く者も少なくない。それでも、名を書き連ねる手は止まらない。名を与え、隊士として迎え入れること。それが彼の役目だった。
一方で、線を引かれた名もある。
負傷により離脱した者、京を去った者、そして、もう戻らぬ者。
筆先が一瞬、止まった。
空白の行が、目に入ったからだ。
何度か頁を捲り、確認する。確かに、そこに在るはずの名前が何処にもない。
(……おかしい)
山南は眉を寄せ、名簿を最初から丁寧に辿った。
役目、配属、雑務の割り振り。どの頁にも、とある隊士の名は記されていない。
それなのに、厨に立つ姿を知っている。
洗濯場で笑う姿を目の前で見て、その声を聞いている。
隊士達が、当たり前のように世話になる様子をこの目で見てきた。
「……っ」
筆を持つ指に、力が籠もる。
書けばいい。書けばいいだけなのだ、その名前を。
そうすれば、ここに「在る」ことになる。
だが、筆先は紙に触れなかった。
触れた瞬間、紙が拒むような、妙な予感があった。
その時、廊下の向こうから微かな足音がする。ゆっくりとした、聞き慣れた足取り。
山南は顔を上げ、背後を振り返った。障子の向こうに、人の気配がある。
「……雪君なのですか」
名を呼ぶ声は、音にならなかった。
返事はない。足音は、何事もなかったかのように遠ざかっていく。
行灯の火が、ふっと揺れた。
山南は静かに息を吐き、再び机に向き直ると名簿を閉じる。
頁の間に挟まれた空白ごと、そっと。
閉じた表紙に、掌を置く。
そこには確かに重みがあるのに、何か大切なものだけが、抜け落ちてしまったような感覚が残った。
(……記さぬ方がいいこともありますよね)
それが誰のためなのか、自分のためなのか、答えはまだ出ない。
行灯の灯を落とし、山南は立ち上がった。
闇に沈む廊下の先で、屯所は静かに息をしている。
その静けさが、嵐の前触れであることを、彼だけが知っているような気がしてならなかった。



