荒廃した世界で、君と非道を歩む

 白いシーツの上に包帯が巻かれた小さな右手が見える。握ろうとしても自分のものではないようで上手く握られない。
 そのもどかしさをなんとかして発散したいが、窓の外は鉄格子で囲まれている。叫んで発散しようにも、窓の外を見ようとしても自由はなかった。

「郁乃さん、入りますよ」

 静かな室内に若い女の声が響く。扉を開く音が聞こえ、足音が近づいてきた。ベッドの周りを囲むカーテンを少し開き、髪を一つに束ねた女が顔を覗かせる。
 光のない目を向けた女は、持っていたバインダーをベッド脇の棚の上に置き、常置されているパイプ椅子に座る。

「体調はどう? 気分は悪くない?」

 この女は毎日決まった時間にこの部屋へやって来て、毎日同じ質問をする。看護師であるこの女にとって蘭の体調を確認することは絶対の仕事であった。
 そう理解していながらも蘭がこの質問に答えたことは一度もない。答えたくないし、答えられない。
 気分なんて毎日最悪だ。真っ白の部屋で毎日同じ時間がゆっくりと流れる。退屈で不自由で気分なんて悪くなる一方だった。

「今日はね、快晴なのよ。雲一つない青空」

 この看護師は何も答えない蘭に対して一方的に語り掛ける。その日の天気やニュース、他の患者との何気ない世間話のこと。
 全部蘭にとっては無関係の話ばかりであった。どうでもいいのにそういうことすら面倒で、いつも看護師の気が済むまで聞き流す。
 人形のように色のない表情を浮かべるだけの蘭を見て、看護師はいつも困ったように眉を下げる。
 嫌気が差したりしないのだろうか。蘭からしてみれば毎日懲りずに話しかけられて嫌気が差している。
 今日も早くこの時間が終わらないかと苛立ちを覚えていた。

「郁乃さんは本って好き? 最近、病院の中の休憩所に新しい本がたくさん増えてね。休憩所を利用する患者さんが増えたのよ」

 そう言って、看護師は棚の上に置いていたバインダーから一枚の紙を抜き取った。
 その紙をシーツの上に投げ出したままの蘭の右手の上に置く。少しだけ視線を動かした蘭を見て看護師は満足気に微笑んだ。

「今日は検査もないし、カウンセリングもないから暇があれば行ってみたら」

 本なんて別に好きではない。そう言うことだってできたはずだが、近頃まともに声を出した試しがなく上手く言葉にできなかった。
 一体何日声を発していないだろう。まともに顔を合わせているのはこの看護師とカウンセリングの先生くらいである。強いて言えばカウンセリングの時に質問に答えているかもしれない。答えていると言っても黙っているか首を振るだけだ。
 きっとこの精神病院に来てから誰にも蘭の声は聞かれていない。

「それじゃあ私はもう行くわね。また何かあったらナースコールで知らせてちょうだい」

 パイプ椅子から立ち上がった看護師はカーテンを開いてその向こう側へと消えていく。
 残された蘭はようやく動きを見せ、右手の上に置かれたチラシを左手で持ち上げた。