荒廃した世界で、君と非道を歩む

 部屋の中を見渡し、部屋の中央に置かれている革が剥がれたボロボロのソファに腰掛けた。反発性が皆無で座ると直接中の骨組みが足の肉に食い込む。座っているだけで腰が痛くなってきた。
 それでも長らく立っていたせいで足は疲れ切っている。座れるなら何でも良かった。
 ソファに深く座り込み、首だけを動かして小さなキッチンに立つ男をぼうっと眺める。この男はここで生活しているのだろうか。
 路地裏の暗がりでよく見えなかったが、男の顔には深い傷が付いていた。今では血が出ていないが皮膚を抉ったようで、傷ができた当初は相当血が出たことだろう。長い前髪から覗く鋭い目と、頬の深い傷も相まって一目見ると男の容姿は恐ろしいと思うだろう。
 それでもここまで付いて来ることを黙って了承してくる辺り、身の上の割にそこまで警戒するような相手ではないようだ。
 それもそのはず。ずっと追い求めていた理想の存在なのだから、その思いは一層強く胸の奥で芽生えた。

(変に優しい人より、こっちの方が信用はできるかも。器用に私を騙したりできないだろうし)

 ぼんやりと男の姿を眺めながらそんなことを考える。
 猫背で口調と目付きが悪く、人柄は荒々しい。身の上は世間を騒がす殺人鬼で、数時間前まで人を殺していた。
 だが今は何処にでもいる人間のように生活している。それがなんともおかしく感じられて、微かに笑い声が漏れた。

「んだよ」

 笑い声が聞こえたのか、ニヤニヤしながら見つめると男は気持ち悪そうな目を向けた。この男も男で人のこと言えないくらい失礼な奴ではないか。
 心の中で悪態をつきながらキッチンから出てくる男を見ていると、男は手に持っている二つのマグカップの内の一つを差し出してきた。
 差し出されたマグカップを両手で受け取る。何やら甘い匂いがしてマグカップの中を覗くと、温かいココアが入っていた。
 マグカップに口を付ける。口の中にココアの優しい甘さが広がり、身体が心から温まっていく。
 男は隣に座ると、頭の上に薄っぺらいバスタオルを乱暴に掛けた。バスタオルで視界が塞がれ、手で捲り上げると隣に座る男も別のタオルで濡れた髪を拭いてる。
 タオルを首に掛けて、男は正面にある扉を見つめてマグカップに口を付けた。

「あ、ありがとう」
「ん」

 一応礼は言っておく。雨で濡れた身体は冷え切っていて、正直に言えば体力が限界だった。
 温かいココアが身に染みる。隣に座る男からは、路地裏で向けられた殺意など全く感じない。

「お前、名前は?」
郁乃蘭(いくのらん)。あんたは?」
青天目志筑(なばためしづき)
「どうやって書くの?」

 志筑は一瞬面倒くさそうに表情を歪めつつも、テーブルにマグカップを置くと立ち上がった。壁際に置かれた棚の引き出しを開けて紙とペンを取り出すと、ソファの元まで戻ってきて再び腰を下ろした。
 テーブルに髪を広げてペンを握る。慣れた手付きで書いた自身の名前を蘭に見えるように掲げた。
 見た目によらず、案外字が綺麗だ。何より蘭よりも綺麗な字を書く。急激に蘭はまともに字を書くことができない自分が恥ずかしくなった。

「綺麗な名前だね」
「てめぇの漢字はどうやって書くんだ?」

 志筑は髪とペンを蘭へと差し出す。差し出されたそれらを見て蘭は一度考えた。
 自分の字が汚いことは重々理解している。まともに義務教育を受けたことがないのだから、文字の読み書きがそこらの同年代よりも劣っているのは明らかだった。
 しかし、自分の名前が書けないという情けないところを志筑には見られたくなかった。
 渋々志筑からそれらを受け取り、机に並べて向き合うと真っ直ぐに集中する。できるだけ綺麗に書けるよう、一画一画ゆっくりと書いた。
 たっぷりと時間を書けて書き上げた名前を志筑に見せる。彼は随分と熱心にその名前を見つめた。

「あんな親に付けられた名前だから、あんまり気に入ってないけどね。あんたみたいに綺麗な名前でもないし」
「そうか? 別に俺の名前もいいもんじゃねぇが」

 自分の名前を自虐的に言って笑うと、志筑は一瞬蘭の目を見た。すぐに名前が書かれた紙に視線を落とすが、その一瞬の彼の行動が蘭の脳に焼き付く。
 名前をじっくりと見ていた志筑はふいに紙から目を離すと、蘭の目を真っ直ぐと見据えた。

「俺は、いい名前だと思うぜ」