荒廃した世界で、君と非道を歩む

 悲劇なんて起こるはずがない。自分がそんな悲劇なんて壊してやる、そう言ってやりたいのに、そう言ってもらえると彼女は期待しているのに、志筑には口が裂けても言うことができなかった。
 緋色の背中を追いかけながら海辺を歩いている間、蘭は一言も口を開かない。志筑の名前を愛おしげに口にすることも、何度も見せた笑顔を振り返って見せることもない。

 二人の関係は、刻一刻と終わりに向かっていた。

 コートのポケットに突っ込んでいた手を中で強く握り締める。蘭と出会う前であれば、当たり前にポケットの中に入っていた物が今は入っていない。それが何を意味しているのかなど、わざわざ蘭に伝えることではないだろう。
 海辺の堤防の上に乗って数メートル先を歩いている蘭を見た。足取りは楽しげあるのに背中は悲しみを帯びている。
 今の志筑は、蘭が行く先に付いて行くことだけを考えていた。
 何処へ行くにも最期の瞬間に自分は傍にいる。そう蘭に自分の口から伝えたのはいつのことだったか。
 大して昔のことではないはずなのにやけに記憶が朧げなのは、自分自身が思い出したくないと記憶に蓋をしている兆候なのだろうか。
 問うても問うても答えの見つからない疑問が志筑の背中を忙しなく叩く。ここで走り出して先を歩く蘭を追い抜かしても何も意味はないというのに。
 段々と志筑の足取りが重くなり、先を進んでいる蘭との間の距離が開いていく。
 足が動かしにくい、足が自分のものではないようで上手く動かせない。それでも蘭とこれ以上離れないために殴ってでも動かすのに、最後にはあっけなくその場に突っ立っていた。
 潮風が志筑の黒いコートの裾を揺らす。微かに香る潮の匂いが不快に感じるほど、二人の左手に広がる海に美しさはない。

「……何してるの、志筑」

 ようやく振り返った蘭の顔に笑顔はなかった。ただ目の前の存在を軽蔑するような、冷たい光のない目が志筑を見つめる。
 見ていられなかった。これまでずっと蘭の瞳には光が宿っていたのに、志筑にとってその光だけが道標だったのに。
 
 そんな冷たい目を向けんなよ。

「何でもねぇ」

 嗚呼、まただ。また誤魔化してしまった。
 言いたいことも伝えたいことも何も言えないで、全てを都合が悪いからと誤魔化してなかったことにする。
 押し寄せる荒波に合わせて一歩を踏み出すと、視線の先にいた蘭は再び志筑から目を逸らした。
 どうしてこちらを見ない、見てくれないのだ。そう言いかけて、今の自分が見苦しい殺人鬼でしか無いことを理解して言葉を飲み込む。
 蘭には今の志筑が運命の人ではなく、ただの愚かな社会不適合者の殺人鬼にしか見えていないのだ。