荒廃した世界で、君と非道を歩む

 途切れた意識が突然鮮明になる。目を覚ますと自分の黒い膝が見えて、やけに辺りが明るく見えた。
 痛む頭を無理矢理動かして、座席に取り残された自身の右手を見つめる。何かを握っていたはずの右手は、何も握らず放置されていた。
 少しずつぼんやりとしていた意識が晴れてきて、直後に激しい焦りと不安が襲い掛かってきた。

 蘭がいない。

「っ! 蘭! 何処に行った────」
「あっ、起きた。見て見て、海が見えるよー」

 蘭の呑気な声が聞こえ、その方向へ視線を向けると向かいの座席に膝立ちをして窓の外を眺める蘭がいた。
 途端に身体に疲れが押し寄せ、志筑は座席にぐったりと座り込む。感じていた焦りが安心に変わり、はあと長く深い溜息が口をついて出た。
 志筑の不安など知らない蘭は緋色の上着を右手に掴んだまま窓の外を眺めている。
 楽しげに頬杖を付いて眺めている蘭に習って、志筑も窓の外に視線を移動させた。確かに、蘭の言う通り電車は地下から抜けて海辺を走っていた。
 街での切羽詰まった逃走劇など欠片も感じさせない長閑な時間が流れている。

「ねえ、志筑。前に二人で海に行ったことがあったじゃん」
「行ったな」
「あの時は夕方だったから太陽が水平線に沈んでいって、海を橙色に染めてた。その後太陽が沈んだら星空が広がってて、そんな空を海は水面に映していた」
「ああ」
「綺麗だったよね。自由になれたって感じがして、本当に楽しかった」

 それまで窓の外を眺めていた蘭は「でも……」と言って口を噤んだ。
 窓の外に投げていた視線を志筑へと向け、向かい合うように座席に座り直す。
 二人の間の通路が心の距離を表しているようで不安が募った。海と緑を背に座っている蘭は何処か脆く儚い。
 何かでこの場に繋ぎ止めていないと何処かに消えてしまいそうな儚さを今の蘭は醸し出していた。その雰囲気が志筑の心の奥を鋭い何かが突き刺していく。

「今見える海は、全然綺麗じゃない。私の目がおかしくなっちゃったのかな? 海が灰色に見えるよ」

 志筑を真っ直ぐと見つめる蘭の目には、微かな悲しみが滲んでいる。そんな悲しみなど、蘭に出会う前の志筑であれは気づくことなどなかっただろう。
 しかし、今の志筑であればその悲しみを感じ取れる。そしてその悲しみの原因が何なのかも分かる。
 志筑自身も蘭と同じ理由で泣き出しそうだったからだ。流す涙などとうに枯れているだけで、悲しみを感じないわけではないのだ。