荒廃した世界で、君と非道を歩む

 階段を降りてホームに出ると、人気のない閑散とした空間が広がっていた。二人の足音がホーム全体に響き渡り、徐々に焦りを植え付けていく。
 周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、志筑がベンチに腰掛けてぐったりと項垂れた。
 蘭はそんな彼の隣に腰掛け、ぼんやりと線路の先を眺める。電車が来る気配も誰か他の人間が来る気配もない。
 たった二人だけの時間が流れていった。

「……怖いなぁ」
 
 自分でも無意識の内にそう呟いていた。震える唇が紡ぎ出したのは、自分の知らないところで抱いていた感情。
 耳元で布同士が擦れ合う音が鳴った。視界の端で黒い何かが身動きをする。
 蘭は隣には視線を向けず、隣りにいるであろう人物の手に自身の手を重ねた。そのまま存在を確かめるように強く、骨が折れるくらいに強く握った。

「……嫌だなぁ」

 自分の中で最大の力を振り絞って握っているというのに、彼は声を上げるどころか表情の一つも変えない。
 あまりに非力で頼りない自分に嫌気が差して、彼の手を握っている手とは反対の左手を膝の上で握り締めた。
 爪が食い込んで掌に痛みが広がる。なんだ、別に自分の力が弱いわけではないんだ。彼の身体が丈夫すぎるだけで、自分が弱いわけではない。
 そう何度も自分自身に言い聞かせる。決して自分は弱くはない、彼が強すぎるだけで自分は普通なのだと。

「……終わるんだなぁ」

 ぽつり、ぽつりと口から溢れ落ちる嘆きは、誰にも聞かれることなくホームのじっとりとした空気に溶けて消える。
 せめて何か一言だけでも言ってほしかったと思うのは我が儘だろうか。
 目の前が歪み始める。目の奥が熱くなって痛くて、喉の奥が蓋をされたように息苦しくなって、微かに溢れる吐息は震えていて。
 どれだけ強く彼の手を握っても、どれだけ彼との約束を反芻しても、溢れ出る涙は止まらなかった。

「志筑、ねえ志筑。怖いよ、嫌だよ。ねえ……」

 何度も何度も彼の名前を呼ぶ。この名前を口にすると、いつも胸の奥に得も言われぬモヤモヤとした何かが溢れるのだ。
 でも、不快ではなかった。決して心地よくはないけれど、嫌だとも気持ち悪いとも思わない。
 ただただ、幸福感が胸いっぱいに満ちるのだ。

「ねえ、志筑。名前を呼んでよ」

 嫌いだった。自分の『郁乃蘭』という名前が。自分自身の存在を証明するこの名前が嫌いだった。
 けれど、志筑はそんな名前を良い名前だと言ってくれた。だから少しだけ、この名前も悪くないなと思えた。
 そして何より、志筑に名前を読んでもらえることが幸せだった。

「……蘭」
「もう一回」
「蘭」
「……もう、一回」
「蘭、俺はここにいる。最期まで一緒にいる」

 繋いでいた手を離すこと無く、志筑は繋いだまま蘭の頭に手を回して抱き寄せた。
 何度も蘭の名前を口にして、何度も蘭の髪を撫でた。
 志筑の胸の中は暖かくて、心地良い。だから、それまでゆっくりと少しずつ流れていた涙は、堤防が決壊したように溢れ出した。