荒廃した世界で、君と非道を歩む

 ずっと力を込めて男の手首を握っていたから、掌から腕に掛けて痛みを感じる。
 少し力を抜けば、隙を見つけた男が手を振り払い態勢を整えた。
 一層凄みを利かせた目で睨めつけられたかと思えば、伸びてきた左手が自分の首筋に触れる。首元を掴まれ、そのまま壁に押し付けられる。気道が塞がれ、脳に酸素が行き届かず意識が朦朧とし出す。

「ごちゃごちゃとうるせぇんだよ。何、知ったような口を聞いてやがんだ」

 泣くようなことは何もないはずなのに、自然と目に涙が溜まり視界がぼやける。息が吸えない。苦しい。

「仮に俺が“そう”だとして、お前はどうするつもりだ? 警察にでも突き出すか? こんな時間に一人で出歩く餓鬼の話をまともに聞いてもらえるとでも思ってんのか?」
「う……くっ…………」
 
 少しずつ首を絞める手に力が込められていく。掴まれた時点で息苦しさを覚えたというのに、この男はまだ締め上げるつもりらしい。
 けれど抵抗する気力など残っていなかった。死ぬことが本望なのだから、このまま絞め殺されてもいいと思っている自分がいる。
 この男にとって、自分は秘密を知った口封じをするべき対象だ。自分を殺すことにより罪を重ねることになるが、世間から逃げることは自分が死ぬことにより幾分か楽になることだろう。

「気持ちわりぃ……。さっきまで死にたくないとか言ってたくせに、抵抗すらしないとか」

 小さく聞こえるか聞こえないかの声量で呟いた男は、突然興味を失ったのか首から手を離した。だらりと降ろされた手はカタカタと痙攣するように震えている。

「ごほっ、ごほっ……はあ………っ」

 長らく息を吸えずにいたのに、突然気道が開けたせいで一気に肺の中に酸素が取り込まれてむせ返る。
 首元を押さえながら咳き込んでいると、男が何を思ったのか手に持っていたナイフをその場に取り落とした。
 戦意喪失ということだろうか。男が纏っていた殺意が消え、辺りに張り詰めていた空気が緩む。

「気持ち悪くていい、理解できなくていい。私はただ、ここから遠く離れた所に行きたいだけ」
「だからって、なんで俺が連れて行かねぇとならない? 巫山戯たこと言ってんじゃねぇ」
「巫山戯てなんかない。私は本気でお願いしてるの」

 このままこの男の流れに乗せられてしまえば、この場で殺されるかつまらない日常に逆戻りだ。
 それだけは絶対に嫌だ。もう二度と、あのつまらなく無駄な時間を過ごしたくはない。

「何度だって言わせてもらう。私、何処か遠くで死にたいの。私の逃避行にはあんたが必要だから」
「それは……俺に殺せって言ってんのか?」

 問われて改めて自分はこの先どうしたいのかを考える。この男でないといけない理由、この男に殺してもらわないといけない理由は何だ。
 別に、この男に殺される必要など無いのではないか。そう考えると、その通りに思えてきて自分の中の決意が揺らぐ。
 何も答えられずにいると、不意に男は視線を傍らに転がっている死体に目を落した。
 もはや人だったのかも分からない肉塊を見つめる男の目に、悲哀も動揺も恐怖も何も無い。
 ただゴミが散らばっているとしか思っていなさそうな目である。