荒廃した世界で、君と非道を歩む

 チラシは先程看護師が話していた休憩所の新しい本の情報である。子供向けの童話から難しそうな時代物の小説。エッセイ本から雑誌まで。
 一つの小さな本屋ほどの量の本のタイトルが長々と書かれていた。
 本なんて別に好きではない。適当に流し見ていても知っている本なんて一冊もありはしなかった。

「あ……」

 自分でも驚いた。久々に自分の声を聞いたこともそうだが、連なる著者の中に知っている名前があったのだ。
 いや、知っていると言うほどではない。何処かで聞いた気がする程度の名前である。

 『前途洋々 影山詩子』

 知らないはずなのに知っているような感覚。何処かで聞いたのかもしれない誰かの鼻歌が聞こえた気がした。

「前途、洋々……」

 小さく呟いてみると誰かが楽しげに歌っている姿が脳裏に過った。ハンドルを握っている後ろ姿はチャラい見た目をしている。
 けれど、彼は決して巫山戯た様子など見せない強い心を持った男だった。
 初めて出会った頃、警戒心をむき出しにしていた蘭にも気さくに話しかけてきた気がする。ただのチャラ男だったのか、なにか考えがあったのかは分からない。
 何がともあれ、それでも蘭はその男を信用していた。温かい手料理を振る舞ってくれたのは彼だったのだ。
 チラシを棚の上に置くと、ベッドから降りてカーテンを開ける。
 久々にベッドから降りたからか上手く歩けず、壁に手を付きながらゆっくりと部屋を出る。
 廊下を真っ直ぐと進んでいると騒がしい子供達の笑い声が聞こえてきた。曲がり角を曲がると広い休憩所がある。
 その中に足を踏み入れ、本棚ではなくCDが並んだ棚の前に立った。貸出しされているCDプレーヤーを手に取り、大量に並べられたCDの中から目当てのものを探す。

『特装版 前途洋々 影山詩子』

 他のCDに埋もれるようにして仕舞われていた一枚のCDを取り出す。二つを手に持って空いている席に座ると、CDプレーヤーにCDを入れてイヤホンを耳に着ける。
 再生ボタンを押すと曲が流れ始めた。
 透き通った女の歌声が鼓膜を揺らす。睡眠導入剤のような落ち着いた曲調は聞いているだけで落ち着く。
 誰だっただろうか。この歌を好きだと言っていた人がいた気がする。初めてこの曲を聞かされた時、自分も悪くはないと思った。

『愛しているから、共にいたい。愛しているから、許したい。どうかこのまま傍にいて。どうかこのまま隣りにいて』

 イントロから始まって、Aメロ、Bメロと続く。そして、サビ。

『貴方と歩む明日には光がある。だから貴方とならどこまでも行ける。たとえ、茨の非道だって』

 息を呑んだ。喉の奥が痛くて目の奥が熱くなって呼吸が止まる。
 この曲はあの人のことを思い出させる力がある。ずっと忘れようとしたのに忘れきれず、今でも引きずっている人。