荒廃した世界で、君と非道を歩む

 時間が止まった。正確には止まった気がした。
 志筑の嘘偽りのない真っ直ぐなその言葉が蘭の脳内でぐるぐると駆け巡る。いい名前、志筑は『蘭』という大嫌いな親が付けた名前をいいと言ってくれた。

 あんたはどうしてそんなに優しい顔を見せるの。どうしてそんなに優しい言葉を言ってくれるの。

 名前を書いた紙を眺めながら、志筑は柄にもなくぎこちない微笑みを浮かべる。ただ名前が書いてあるだけなのに、どうして志筑はこんなに嬉しそうなのだろう。
 蘭は生まれてから今までずっとこの名前が嫌いだった。何度も捨てたいと思った。
 それなのに志筑がの『いい名前』と言う言葉を聞いて心の中の何かが崩れる。少しだけ、この『蘭』という名前がいいものだと思えた気がした。
 名前とは、人が生まれて初めて贈られる最高の贈り物なのだから。

「……そっか、いい名前、か」

 志筑の言葉を噛みしめるように繰り返す。出会って数時間という相手の言葉がこんなにも嬉しいなど、夕方に目覚めたばかりの自分は思っても見なかっただろう。
 監獄のような家から逃げ出したから、全てが理想通りの志筑に出会った。やっぱり、志筑がいないと自分の願いは叶えられない。そんな確信があった。

「私、ここにいていい?」

 志筑の切れ長で琥珀色をした目を真っ直ぐと見つめる。彼の目を見ているとまるで瞳の奥に吸い込まれそうだ。
 吹き抜けの窓の外に浮かぶ月と同じ色の目は、一瞬の揺らぎを見せると閉じられた瞼の奥に消える。
 もったいないと思ってしまった。長い前髪でその綺麗無い目を隠してしまうことが、殺人鬼として世間から隠れて暮らしていることが。
 だって、志筑は誰よりも優しいから。大嫌いな名前をいいと言ってくれて、自分の住処にまで連れて行ってくれた。
 殺人鬼だから志筑は悪い人。それは間違っていない。けれど、何も知らない世間の人々が志筑を殺人鬼というだけで悪者に仕立て上げるのが許せなかった。
 きっとこんな考えなど誰にも理解されないのだろうけれど。

「家には帰りたくないんだったな」
「……うん」

 整った横顔を見つめながら静かに頷く。細く開けられた目が揺れ動き、優しい眼差しを向けた。
 数秒見つめ合って気がつく。出会った時に感じた志筑に対する不信感も恐怖も今では無くなっていた。
 志筑はソファから立ち上がり、部屋の奥にある別の扉を開けながら振り返る。
 ニヤリと口角を上げて笑うその姿は、まるで神様のように蘭の目に映った。

「怖くなったからって、逃げるなよ」

 それは今日から始まる、殺人鬼と少女の不釣り合いな日常の始まりだった。