「あ…………あ、うあ」
眼前に迫る男の大きな掌から逃げる気力も体力も残っていなかった。
逃げないと。
逃げないと。
「親御さんが見つからないのなら、おじさんが見つかるまで一緒にいてあげるよ。ほら、おいで」
甘く優しい言葉遣いをして怖がらせないようにしているようだが、言葉の端々からは下心が隠しきれずに溢れている。荒い鼻息、紅潮した頬、小刻みに震える肥えた身体。
気持ち悪さと恐怖から再び胃の中のモノが逆流しそうになった。ぐるぐると回る視界と気分の悪さから声を出すことすらできない。
ぎゅっと目を閉じた。目を閉じてもう一度開けたらこの地獄が終わっていると期待して。
けれど目を開けても男は目の前にいる。逃げ遅れた小さな肩を男はしっかりと掴んで離さない。
逃げないと。
逃げないと。
本能は何度もそう叫んで逃げ出そうと藻掻いているのに、身体が地に根を張ったようにして動かない。自分の身体が自分のものではないような気がして、謎の浮遊感が身体を襲った。
ただその場に突っ立ったまま、この後に起こるであろう災厄を想像するしか今の自分にはできない。
そう思っていた。
「うおりゃあああああ!」
それは突然の、恐らくその場にいた誰もが想像すらできなかったことだ。
本気で命の危険を感じていたはずなのに、気がつけばそれまでの出来事など綺麗さっぱり忘れている。
それもそのはず、突然鬼気迫る男の子の声が聞こえたかと思うと、目の前の肥えた大男の身体が後方へと吹っ飛んだからだ。
「ぐえっ!」
何とも情けない声を上げながら大男は地に仰向けになり、ぐるぐると目を回していた。男の腹部には小さな子供の足跡がついている。その跡を見たとて、現在何が起こっているのか理解するなど不可能に近かった。
訳が分からず人々に囲まれる大男をぼんやりと傍観していると、すぐ傍で男の子の声がした。
「おい、お前」
男の子と言っても声変わり前なのか、まだまだ子供らしい声で男の子は声を荒げる。
声が聞こえた方を見ると、そこには自分よりもほんの少し背の低い男の子が立っていた。鋭い視線は一見睨みつけているようであるが、よく見ると涙が浮かんでいる。何とも鉄のように無機質な声がその男の子から発せられたものだとは思えないほど、男の子の姿は痛々しかった。
服の袖から覗く包帯、頬に貼られた絆創膏に傷だらけの顔。こんなにも傷だらけの男の子があの大男を蹴飛ばしたなど、嘘でも信じられなかった。
「変な奴に絡まれたら逃げないと駄目だろ。それとも何だ、あのまま連れ去られてもいいとか考えていたのか?」
さほど年齢は変わらないはずなのに、男の子の発する言葉は年齢に反して的を得ている。
図星を指されてしまい、逃げるように視線を逸らした。今はあの大男よりもこの男の子の方が怖いと感じた。



