嘘つきと疫病神

 盗みをするとなると気が引けるが、生きるため、食料を得るためには盗みをする他無い。
 今の世界がどれだけ食糧難に陥っているのか自分には知る由もないことだ。だから盗まれた側の悲しみではなく、また痛い目に遭うのだろうなという部分に引け目を感じる。それでも盗みをやめようとしないのは、少なからず生きようと本能が抗っているからなのかもしれない。
 井戸から離れてもう一度庭に戻る。庭の中から部屋に視線を移すと、変わらず母親の死体が部屋の外に向かって横たわっていた。

「さようなら、母さん」

 そう言ったのは、もうこの家に戻るつもりがないからだ。食料も思い出も何も無いこの朽ちた家に帰る必要など、今の自分にはありもしない。
 母の死体に背を向け、それから一瞥もくれずに庭を抜ける。母親を一人家に残し、見ず知らずの町へと繰り出した。
 町は驚くほどに寂れていて、灰色に染まったモノクロ映像のように目に映った。いつから始まったのか思い出せないほどに続く食糧難のせいで、まともな店は見当たらない。これでは食料を手に入れるにも盗みができないじゃないかと、町中を歩きながら密かに苛立ちを胸の内に秘める。
 ボロボロの布切れと何ら変わらない服を身に纏っているからか、風呂に入れず汚らしい見た目をしているからか、骸骨のように痩せ細っているからか、それともその全てか、道行く町人はこちらを化け物を見る目で見てきた。
 そんな視線に興味も恐怖も何も感じないが、ひそひそと何かを話している様子は不愉快極まりない。それでも、やめろと口に出す勇気など無く、覚束ない足取りで町中を歩くことしかできないのだが。
 周りからの視線を全身で受けながら、商店や潰れた飲食店の傍を通り過ぎる。この町には何も目を引くものが無かった。
 寂れて活気を失い、誰も笑わない不気味な町。
 まるで自分だけが異世界に飛ばされたと錯覚するほどに、町からは人の生気を感じられなかった。

「お嬢ちゃん、一人? こんな所で何をしているのかな?」

突然、背後で知らない男の声が聞こえた。それもすぐ後ろ、頭の真上から聞こえる。
 ぞわりと背筋が粟立つ。全身が一瞬の内に恐怖に蝕まれ、気管が狭まり上手く息が吸えず視界が歪む。
 全身が、本能が命の危険を叫んでいた。

「子供が一人では危ないよ。親御さんは一緒じゃないのかい?」

 決して若くはない、恐らく四十代半ばの中年の男性。荒い鼻息を吐き出しながら、じっとりとした視線を向けているのを背中で感じた。
 ゆっくりと恐怖を悟られないように振り返る。見知らぬ男の腹部が視界いっぱいに埋め尽くした。
 太くゴツゴツとした指先が動きを見せ、顔程度ならば簡単に覆えてしまう大きな手が眼前に迫った。