嘘つきと疫病神

 死んでいるのだから返事をしないのは当たり前。そう気がついた途端に母親に対する興味が無くなり、身体から手を離すとその場にぐったりと座り込んだ。
 薄暗い部屋ではよく見えなかったが、太陽の光が部屋の中に差し込んだ一瞬、母親の身体を照らした。そうして母親の容姿に目が行く。母親はすでに人の形を保ってはいなかった。
 抜け落ちた髪がそこら中に散らばり、千切れた腕は皮膚の中から骨が見えている。俯いた顔を伺い知ることはできないが、微かに見える額はすでに骨と化していた。そこにいるのは人ではなく、白骨化した死体。

「まただ」

 目の前に広がる光景がどれだけ恐ろしいものなのか理解していないわけではない。ただ、何度も目にした光景に恐怖を感じないと言うだけ。どれだけ有名で人気の観光地でも、何度か訪れたら感動を忘れてしまうのと同じことである。
 人が死ぬと、何とも形容しがたい虚無感に襲われる。その正体が何なのかは分からない。
 その虚無感が胸の奥の何処か手の届かないところに根付き、感情という感情を掻き乱していく。不愉快、ただただ不愉快だ。
 声を出して初めて、自身の喉が砂漠のように乾いていることに気が付く。何度か咳き込むと鋭い痛みが喉を刺した。
 ふらりと力なく立ち上がると、母親の死体の横を通り過ぎて庭へと足を踏み入れる。裸足のまま足の裏に草の感触を感じながら、家の裏手にある井戸へと歩みを進めた。ざりざりと音を立てながら歩くと、家の影に隠れるようにしてぽつんと井戸がある。
 井戸の縁に手を着き、バケツを中に落として水を汲み上げる。小さな身体と何も食べていないせいで体力などあるはずがなく、水を汲み上げるだけでも精一杯だ。引き上げた勢いで身体が後ろへと引っ張られる。
 水飛沫を上げながら暴れるバケツに手を伸ばし、両手で引っ掴むと口をつけた。生臭いし生温いし変なものが浮かんでいるしで到底飲めたものではない。しかし喉は水分を欲していて、目の前にある水を飲むしかこの乾きを癒す方法はなかった。
 もう一度口をつけ、ぐいっと上げると頭から水を浴びた。
 少しだけ頭がすっきりとして思考が鮮明になる。無意識の内にまた井戸の中を覗き込んでいた。

 ───この中に入れば、──ねるかもしれない───

 浮かび上がった嘆きを頭を振って掻き消す。こんな事、考えるものではない。

「お腹、空いた」

 ぐううと何とも呑気な音が腹から鳴り、咄嗟に周囲に人がいないか確認した。当然と言うべきか、幸いにも家の敷地内にもその周辺にも人の気配はない。
 腹の虫が空腹を知らせてくるが、今の手持ちは何も無く食べ物など以ての外である。絶望的な状況であるが、こういう時にどうすればいいのか、食べ物を得る方法が無いわけではない。
 町に出て盗みをしたらいいのだ。