「今日はいい天気ね」
縁側に座って空を見上げていると、隣から甘い匂いがした。顔だけを向ければ、老婆が同じように空を見上げている。
正座をした老婆の傍には、何度も目にしたことがある茶菓子と湯呑みが乗ったお盆が置いてあった。
ふわりと夏の匂いを乗せた風が頬を掠める。これで何度目の夏だろうか。庭に咲く蕗の花を見て、懐かしさと寂しさを覚える。季節外れの蕗の花は、そんなこと関係ないとでも言いたげに、意気揚々と陽の光を浴びていた。
「“お義母さん”、呼んでくださったら私が運びましたのに」
「あら、いいのよ。これくらい私にさせて頂戴。蕗ちゃんはもう私の娘なんだから」
そう言って老婆、義母はふうわりと笑った。自分の姉となってくれた鏡子とよく似た笑顔。
この老婆は鏡子の母親、終戦後に身寄りの無くなった蕗を娘として受け入れてくれたのだ。義母は「鏡子がいなくなった寂しさが少し紛れるわ」と言って心から蕗を歓迎した。
「柳凪蕗って、未だに慣れません」
苦笑を零しながら義母から受け取った湯呑みに口をつけた。ほろ苦い茶の味はあの頃の日々を思い起こさせる。
蕗の言葉に義母は心底嬉しそうに笑った。二人目の娘ができたことがそんなに嬉しいのだろうか。鏡子に世話になった身とはいえ、義母に何か貸しを作ったわけでもなければ、ほとんど初対面の状態で家族になった。
母親とはこうも簡単に血の繋がっていない相手を家族同然に愛せるのか。鏡子はきっとこの母親に似たのだろう。血の繋がりなど関係なく誰にでも平等に接する。
この世界には他人のために命をかけることを厭わない人が多すぎた。
一年前、輝かしい月が浮かぶ夜空の下で別れた仁武もそうだ。共に生きたいと願ったくせに最後は旅立ってしまった。
しかしそれを蕗が受け入れたのもまた事実。彼の意思を尊重したことで今がある。
「無理して名乗らなくたっていいわよ。少しずつ、この生活に慣れていってくれたらそれでいいの」
義母は皺々の手で包んだ湯呑みをゆっくりと口元に運んだ。その仕草を見て、蕗もつられて再度茶を啜った。
量が減ったからか、底に沈んでいた茶葉を直接啜ってしまい口の中に苦みが広がる。
初めて柳凪で茶を淹れた日、鏡子達が傍で見守っていてくれたが上手くできずに苦い茶を淹れてしまったことがあった。その苦さは到底飲めたものではない。
しかしさすが親子と言うべきか、茶屋柳凪と同じ茶葉を使って義母が淹れたこの茶は、香り豊かでするりと喉を通り過ぎていく。
今ではそれなりに上手く茶を淹れられるようになった蕗だが、鏡子や義母の淹れたものには敵わない。
と言うか、張り合うことすら烏滸がましい。母親と姉にはまだまだ届きそうにもなかった。
「一年ってあっという間ね。戦時中の生き辛さが今もまだ残っているから、そう思ってしまうのかも」
「そうですね。終戦から一年経ったところで、前のような日常が簡単に戻ってくるわけではありませんから」
終戦から一年が経った今もまだ、何処かに仁武がいるのではないかと思ってしまう。それは未だに彼との別れを受け入れられていないからだろう。
その影響か、前よりも物忘れがひどくなっていた。手に持っているはずの食器を探し回ったり、何度も義母に同じ質問をしてしまうのだ。
記憶障害は一年経って悪化しているようだった。調子が悪い日は自分の名前すら忘れてしまう。
その度に義母が根気よく名前を読んでくれるから自分自身を取り戻すことができた。
しかし、義母ももう年である。いつか蕗よりも先に旅立ってしまうのは目に見えていた。それでも今ある時間は、蕗にとって新しい旅立ちの一歩である。



