次の日の朝。俺はいつもと同じ時間にベッドから身体を起こすと、昨晩脱ぎ散らかしたままにしていた下着を手早く着てしまう。身体は汗でベトベトしており、本当はシャワーを浴びてしまいたかったが、昨晩の事を思い出すと、一刻も早くこの部屋から出てしまいたかった。

(シャワーは事務所にもあるから、そっちで浴びるか……)

 そんな事を考えながら、ワイシャツに袖を通していた時だった。

「んっ……」

 先程まで俺が寝ていたベッドから、白い肩を晒し、一糸纏わぬ姿をした華奢な契約妻が、片手で目を擦りながら身体を起こしたのだった。

「あっ……!」

 彼女と目が合った途端、バツが悪くなって目を逸らす。視界の隅に、よく磨かれた黒曜石の様に黒々とした瞳に涙が溜まっていくのが映った。
 やがて彼女は両手で顔を覆うと、その場ですすり泣き出したのだった。

「うっ……ううっ……」

 さめざめと泣く彼女を慰めようにも、かける言葉が見つからず、俺はただワイシャツのボタンを留め続ける。

(いつもこうだ。彼女を傷つけ、目を背けて、逃げてばかりいる)

 自己嫌悪に陥りつつも、俺は口を開く。

「これで、貴女の目的は果たせたでしょう。早く日本に帰って下さい」

 我ながら何とも酷い言葉だ。自分が嫌になる。
それでも彼女は――小春は、聞き分けの悪い子供の様に何度も首を振り続けた。その態度に舌打ちしたくなる。

「私に恩を返して、夫婦らしい事をしたかったのでしょう。これの何が不満だというんですか?」

 詰問するように声を尖らせると、小春は泣くのを一度中断して俺の顔をじっと見つめてくる。何度も口を開閉したかと思うと、やがて蚊の鳴く様な声で言ったのだった。

「こんなの、夫婦じゃない……」

 そうしてまた泣き出した小春に溜め息を吐くと無言で着替えを続ける。やがて上着を着ると、小春に背を向けたのだった。

「リビングのテーブルの上にお金を置いておきます。日本に帰るのなら、それでタクシーに乗って空港に行って下さい。冷蔵庫の中の物は勝手に食べてもらって構いません。シャワーも好きに使って下さい。予備のカードキーもここに置いて行くので、出て行く時は下のレターボックスにでも入れて下さい。
 とにかく、目的を達成したのなら早く日本に帰って下さい。話があるのなら電話で聞きます。わざわざここに来なくて結構です」

 足早にリビングルームに行くと、上着の内ポケットから財布を取り出す。中からドル札を数枚と予備のカードキーを引っ張り出して、叩きつける様にテーブルに置くと、玄関に向かったのだった。
 玄関にまで小春のすすり泣く声が聞こえてきて、だんだん気分が重くなってくる。

(これで良い。これで彼女は安全な日本に帰ってくれる。いつ犯罪に巻き込まれるか分からない、この地から帰ってくれる)

 マンションの廊下に出て、玄関の扉を閉めると、ようやく俺は安堵の息を吐き出せたのだった。

 ニューヨークに来て、まず良いと思ったのは、バスの本数が多い事だろう。
 日本でも田舎に住んでいた身としては、バスを一本逃すと、路線に寄っては四十分以上来ないのは当たり前であり、その日の最終バスを逃すと、帰宅難民になるのはほぼ確定であった。
 それに比べてニューヨークは路線に関係なく、バスの本数が多い。本数が多いだけあって、満員になる事は少なく、また値段が一律なのもありがたい。
 日本は目的に寄って値段もバラバラなので、あらかじめ調べておかないと乗車してから金が足りなかったという事態になりかねない。
 マンションから最寄りのバス停に到着して間もなく、事務所の近くにある大通りを経由するバスがやって来る。俺はバスに乗ると、適当に窓際の席に座ったのだった。

(いつもこうだ)

 バスが走り出してもなお、小春の泣く声と「夫婦じゃない」という言葉が耳から離れない。気絶するまで抱いた俺を責める様に耳の奥でこだまして、マンションから離れた今もずっと聞こえていた。

(こんなつもりじゃなかった。こんな事の為に自殺しようとしている彼女を助けて、契約結婚を申し出たつもりはなかった)

 バスの窓に自分の顔が映る。童顔を気にして格好つけて掛けているレンズの入っていない銀縁眼鏡を外すと、そっとスーツの胸ポケットに掛ける。そして先程から窓に映る、無能な弁護士の顔をじっと睨みつけたのだった。